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天皇陵・古墳の学術的研究・保存を早急に求める

[高松塚古墳]壁画損傷こっそり補修、東文研所長が指示
 奈良県明日香村の高松塚古墳(7世紀末~8世紀初め)で、作業中の文化庁や東京文化財研究所(東文研)の調査員が02年に国宝壁画を傷つけ、公表せずに補修していた問題で、補修が当時の東文研所長で、現在は文化庁の同古墳壁画恒久保存対策検討会座長を務める渡辺明義氏(70)の指示で行われていたことが14日分かった。補修にあたった複数の当事者が検討会のメンバーになっていることも分かり、関係者からは検討会の正当性を疑問視する声が上がっている。
 東文研は、文化財の保存と修復技術の調査研究をする独立行政法人の機関。高松塚古墳では美術などの専門家が傷んだ壁画の修復などにあたっている。
 指示は文化庁の内部資料、「高松塚古墳修理日誌カード」などから分かった。事故はこの年の1月に起き、その場で補修が行われたが、2カ月後の3月28日の日誌によると、渡辺氏は同日午前、現地を訪れ、「事故部分には周囲の土を殺菌して、水だけで溶いて塗付する」と方針を示した。作業は午後、その方針通り行われた。
 渡辺氏を含め補修に当たった7人のうち4人が検討会(24人)の委員。【栗原俊雄】

 上記で「指示は文化庁の内部資料、「高松塚古墳修理日誌カード」などから分かった」とあるが、「朝日新聞などが文化庁に情報開示を請求したことで明るみに出た。分厚い現場の作業日誌を丁寧に読んでいって、ようやくたどりついた事実だ。逆に言えば、情報開示を求めていなければ、日の目をみることはなかった」(「06/04/16付け朝日新聞・社説」より)ものだ。

「検討会の正当性を疑問視する声が上がっている」というが、渡辺座長は、15日になって座長の座と共に委員も退く意向を示している。
 高松塚古墳の壁画にカビが発生したことが報じられた時は、下手に外部からの手が入ると長年にわたってとりあえず残ってきた壁画も傷んでしまうのかと、学術的調査・研究に待ったが掛かるのかと思われたものだが、なんのことはない、「工事関係者が規定に従わず、防護服を着ないで古墳内で作業したため、石室内にカビの大発生を招いた」ものだったのだ(「06/04/16付け朝日新聞・社会面」より)。
 こうした不祥事を隠す仕儀は、東京文化財研究所(東文研)の姿勢のみならず文化庁の体質に無縁ではないように思われる。
 天皇陵に限らず国宝などの文化財の保存を文化庁の管理に任せておいていいのか、不安でならない。
 数知れない古墳の中には徹底した調査をすれば壁画などの貴重な文化財が見つかる可能性があるのではないか。特に古墳などを雨ざらしのままに風化させてもらっては困る。

 以下、5年前に某フォーラムに投稿した関連する記事をホームページのエッセイ欄から原文のままに転記する。




天皇陵の学術的研究・保存を
 
天皇陵の学術的研究を

小生は古代史や考古学(必ずしも日本に限りませんが)に興味があり、いろいろ文献に当たったり、近年新聞などマスコミ上を賑わす縄文時代や弥生、更には飛鳥などの発掘情報に耳を傾けています。
 特に縄文時代が従来の想像や先入見をあざ笑うかの如き、文化においても各地の交流においても活発な時代であったことがドンドン明らかになってきている。逆にいうと、決して戦争や身分制度や病気などのなかった時代では決してなかったことも次第に見えてくるだろうけれど。
 ところで「卑弥呼の謎 年輪の証言」(倉橋秀夫著、講談社)など、ここ数年など、年輪年代法の確立により新しい知見が現れていて、弥生時代についても小生は興味津々です。
 その上で、上記の成果により従来から言われていた箸墓古墳は卑弥呼の墓ではないか、しかし、それにしては年代が合わないという難点があったのが、年代的にも符号してきたという。その結果、年代区分も変更を余儀なくされてきたし、同時に古墳時代の始まりも、もしかしたら卑弥呼の墓を持ってということになるのかもしれない。
 それはともかく、古代史学者や考古学者ならずとも、箸墓古墳に限らず、天皇陵として宮内庁の管理の下、実質的には風雨と月日に荒れるままになっている現状を憂えている人は多いだろう。
 何故、宮内庁は、天皇陵の学術的研究を許さないのだろう。一部では天皇陵は正に墓であって、神聖な場所であるからとか、あるいは又、天皇陵を研究されることで天皇の出自が明らかになるのが困るからとか、憶測は尽きない。
 しかし、天皇陵は日本人の宝ではないか。我々はエジプトの王の墓であろうピラミッドだって研究している。それは墓を暴くこと、単なる好奇心のなせる業ではないはずだ。正に世界の財産・至宝であるからこそ、きちんとした研究をしたいのではないか。
 このフォーラムの参加者の方々はそうした事情などに詳しいと思われるので、是非意見を聞きたいものです。
                     邪馬台国をヤマトの国と読みたいK

[この発言は某フォーラムへの投稿文(昨年3月21日付け)をそのまま掲載しました。最後のKは投稿時の小生のハンドルネームの頭文字です]



天皇陵の学術的調査・研究・保存を(続)

小生の単純な思考癖から、ついて結論を急いでしまった。前回、年輪年代法などハイテク考古学の発達により、箸墓が卑弥呼の墓である可能性、まさに場合によっては生存中に卑弥呼の世界観・宇宙観、あるいは呪術的思考から来る政治情勢認識から、先進地域である朝鮮半島の文化や政治制度の一端としてあの古墳の形式を取り入れたのだろう。
 それとも卑弥呼没後、邪馬台国を圧伏した勢力が旧来の文化を否定し、新規勢力の文化を移入し、卑弥呼をさえもその墓に封じ込めたのだろうか。古墳時代が騎馬民族文化なのかどうか分からないが、大陸文化の匂いはプンプンする。
 ところで、結論を急いだと述べたのは、確かに、あるいは仮に卑弥呼の晩年時において彼女がヤマトの地にいたとしても、あるいは埋葬だけかの地で行われたのかもしれないし、邪馬台国までもがヤマトの地にあったとするのは早計なような気がするからだ。
 邪馬台国が実質的には九州にあって、卑弥呼が長年の大乱を治める象徴的地位についた時、東の倭の地へ遷ったとは考えられないだろうか。中国の史書にもあるように日本と倭とは別物であることだけは確かなのだから。
 いずれにしても、箸墓古墳などを学術的研究・調査してみなければ、分からないことが多いが、ただ、仮に箸墓古墳が卑弥呼の墓であったとしても、だからといってヤマトの地、畿内が邪馬台国の所在地だとするのは別のことかもしれないということだ。
 さて件の天皇陵の学術的研究・調査である。日本と韓国が新しい時代を迎えようとしている。その時にあたって、少なくともある時代までは切っても切れない関係にあった日本と韓国との(大きくは朝鮮との)歴史的文化的背景を探ることは意義少なしとしないはずである。
 何といっても日本は多分、弥生どころか縄文の昔から大陸(中国)を常に意識してきた。そして、最近、縄文時代の日本が想像以上の文化程度を達成していたとしても、しかし大陸が先進地域であったことは間違いない。
 その上で、日本は直接、中国などの大陸文化人に接するより、飛鳥や奈良時代などを見れば明らかなように朝鮮半島の文化人(政治・経済を含めて)を介して移入していたのだ。
 あるいは弥生時代が大陸からの渡来人の影響で始まったように、あるいは古墳時代以降は、単に朝鮮の人々が文化の指導者であっただけではなく、実際に政治的指導者でもあったのかもしれない。天皇の血筋が土着(どこからが土着なのかも不明だし、言い換えるとその前に土着という言葉の定義も曖昧なのだが)のものだけとは誰しも断言できないはずだから。
 日本の人々(特に王権に拘る人々)は長年、朝鮮にコンプレックスを持ってきたようだ。かなりの程度において彼らが指導者であり先進文化の担い手であったことを、なんとか否定はできないものの、その程度を極力少なく考えたいのだろう。
 こと、有史に限れば成り上がり者の国家である日本は、それだけ朝鮮(そして中国)に拘ってきたのだろうと小生は考える。だからこそ、靴底で甚振るような真似を犯してしまったのではないだろうか。
 日本の歴史を遡れば、北海道であればオホーツク文化圏として場合によってはロシアの一部との繋がりが古くからあったわけだし、南に目をやれば東南アジアとの文化的そして血縁的関係が深い。九州から北陸などは朝鮮半島や大陸との交流が縄文の昔から(恐らくは石器時代から?)あったと考えるのが妥当だろう。
 その交流が文化に止まるはずもなく、血縁の上でも混血したことは想像に難くない。 日本人とは日本の文化・風土・伝統を愛しつつ日本国籍を有しているもののことであって、血筋において遠い(あるいは近い)過去において朝鮮人だったとか、中国人だったとか、東南アジアからの渡来者だったか、ブラジルなどからの移民だったかには関係ないはずだと小生は考える。
 日本と韓国(朝鮮)や中国との絆を再確認する一貫として天皇陵墓を国民の財産として冷静な目で研究・調査・保存を望みたい。多分、日韓の文化交流の象徴になりうるのではなかろうか。
                                  越の国よりの流れ者K

[この発言は某フォーラムへの前回の投稿(昨年3月21日付け)の続編です。日付も同じです]
by at923ky | 2006-04-16 12:34 | コラムエッセイ


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