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「仮の宿」とマッチ箱の家と

 随筆日記の表題を選ぶのに、いつもながら、迷う。
 冒頭に木曜日の朝、仕事が終わって会社の車庫に戻り、納金などの雑務を済ませて、さて、帰ろうかと思ったら、車庫のあるビルの脇に咲いている花が目に付いた。
 野暮天の小生には花の名前など、分からない。そこには、何種類かの花が咲いている。例えば、黄色の小さな花…、恐らくは菊の仲間だろうとは思えるのだが。
 雑草というわけではなさそうだ。かといって、誰かが丹精篭めて世話していると思えるような場所でもない。通りすがりの誰かが、ゴミなど捨てそうな、何気ない場所。
「仮の宿」とマッチ箱の家と_c0008789_1722523.jpg 花にとって、雑草など、花の咲かない植物にとって、地上の世界とは一体、何なのだろう。たまさかの仮の宿なのだろうか。花は、寒くなってきた今も、恐らくは一晩中、咲きつづけている。葉っぱも、枯れ葉だとか紅葉などとは無縁だとばかりに緑色の光沢が鮮やかである。
 時間帯によっては、直射日光だって容赦なく浴びる場所。
 路傍の植物達が、とにもかくにも地上世界に顔を出した場所が、仮の宿だろうが、花粉か何かでもっと他の場所へ移っていくことを希(こいねが)っているのだとしても、いずれにしても、今、ここで咲いている、緑の葉を誇らしげに揃えている、この今の場所を終の棲家とするしかない。
 ということで、今日の表題は、「仮の宿」とすることにした。

「仮の宿」は、季語でも何でもない。
 ただ、これが「狩の宿」なら、冬、それも12月の季語のようである。文字通り、狩りをするための宿で、昔なら、山間の粗末な(?)小屋だったりしたのだろうが、今なら、旅館かホテルか、とにかく立派な宿舎なのだろう。
 いずれにしても、「狩の宿」は、今の我々には馴染みが薄い。あるいは、全くない。
 が、「仮の宿」となると、話は別だろう。
 今のマンションや頑丈そうな家に住まれる方であっても、どこか、日本人の多くは仮の宿という感覚があるのではなかろうか。



 それなのに、ネット検索で、「仮の宿」にちなむ句を探しても、なかなか見つからない。

 地震が多い国である日本。だから、家やマンションなどが地震に堪える構造になっているか、というと、現実はさにあらずということは、誰もが知っている。過去からの地震に学んできた知恵が多く伝えられてきたはずなのに、マンションも木造の家屋も、少なくとも戦後に建てられたものの多くは、呆気なく壊れてしまう。
 日本人は、過去に学べない、よほどの馬鹿なのか。
 あるいは、どうせ、地震に限らず、火事や戦乱で焼かれたり壊れたりするのだから、せいぜい、一世代か二世代の居住に耐えたら、それでいい、あとは、立て替えるか、いずれにしても、転居していく。そう、仮初の、当座の住まいに過ぎない…、そんな感覚があるのだろうか。
 マンションでさえ、十年はともかく、二十年も経つと中古扱いであり、三十年を経ると、建て替えさえ意識されてくる。老朽化がひどいから? それもあるが、もっと多くは、建物に飽きてしまったからではないかと思われたりする。
 イギリスなど、百年以上の家は当たり前という感覚があるという。
 日本の一昔前の家だって、火事や戦乱、地震に見舞われない限り、あるいは、地震や台風程度の災害なら、びくともせずに百年という歳月・風雪を耐える、そんな構造だったり、立派な柱がドーンと立っていたりしていたのだ。
 いつから、鉄筋コンクリートのマンションさえ、数十年で建て替えが当たり前という感覚に慣れてしまったのか。

 日本人の多くは、歴史を長いスパンで眺めるのが苦手だという。先の戦争の被害も、さらにひどいのは加害者だったということも、すっかり忘れ、日本がアメリカと戦い、中国にひどい戦禍を与えてしまったことも忘れ去ってしまう。
 未だに被害を言い募るのは、とんでもない言い掛かりか、そうでなかったら、なんて、しつこいんだろうと思ってしまう。が、諸外国(の一部では)数百年の昔の出来事でも、きちんと言い伝えられてくる。豊臣秀吉が朝鮮出兵し、非道の限りを尽くし、数多くの人々を拉致してきたことを関係者の子孫らは忘れない。
 が、日本では、歴史の彼方のさらに遠くに霞んでいる。歴史の事実だということも、呆気なく拭い去ったりする。

 仮の宿、そういう感覚。無常感の底に流れる人生観や虚無感には、小生など、窺い知れない深いものがあるのだろう。
 しかし、仮の宿であっても、生きている以上は、終の棲家なのであり、現実のこの世に生きているのであり、過去だろうが現在だろうが、一度、やってしまったことは、消えないし、消せないし、歴史の事実として背負うしかないのである。
 自分自身の感覚の中では、勝手に無常感を覚え、この世を夢の世と思うのも構わないが、日本人が日本だけに生きているのではなく、世界の中にあって生きる以上は、島国の中でのみ通用する感覚のままで、のほほんとはしていられないのではなかろうか。
 イスラエルのように、(旧約)聖書の約束の地なのだと、二千年の昔の宗教的約束をマジに受け取り、その地に長年住んでいる人々を追い出してしまう国家もあったりする。
 世界は、21世紀を迎えて、ますます民族的に宗教的に交わり、交錯し、対立し、軋轢の熱を高め、そこに国家や多国籍企業などの思惑が加わって、混乱の度を高める。
 仮の宿という感覚、人生観。

 が、ここが不思議なところで、そういった無常感や宗教的諦念に裏打ちされたような人生観があるように思われるのに、実際の日々の生活では、結構、享楽的で、侘び寂びを口では言っていながら、そうした句や歌を作りながら、なかなかしたたかにレベルの高い生活を断固、確保する。
 決して、日々の入浴の楽しみを、グルメを、健康志向を、旅の楽しみを、綺麗な部屋を、高級な車を、瀟洒な邸宅を、手放すことはない。
 よって、エネルギー効率を高めても、それ以上の勢いでエネルギーを消費する。海外からの原油などの資源をドンドン確保する貪欲なる傾向は強まる一方である。
 仮の宿という、何か高尚そうな、淡々としたような、物事にこだわらないような姿勢をさりげなくアピールしながら、味付けの薄いオカズ、お茶漬けさえあれば満足だといいながら、その実、脂っこいものを食べ過ぎるほどに食べる生活意欲の旺盛さは、今日も明日も健在なのである。
 もしかしたら、淡白さを、無常感を、清楚さを、清潔をアピールするのは、生活の実態の貪婪さを覆い隠す隠れ蓑として、上辺を飾る小道具としての面が強いのではないか。
 そんな疑念さえ、抱いてしまう。

 なんだか、当初、書くつもりだったものとは大分、様相が違ってきてしまった。ブランド志向、健康志向、清潔好き、環境へのこだわり、これらって、要するに贅沢好みってことなのではないか。環境へのこだわりも、環境が大事だからではなく、環境の悪化が天候異変などの形で自分たちの生活に跳ね返るからに過ぎないのではないか。
 そんな憶測や疑念に駆られながらも、とりあえずは、小生も駄句をひねったりする。清貧を心掛けよう、なんて思ったりする。矛盾なのだろうか。
 掲げた写真の説明は、冒頭で済ませてある。上書きした句は、「仮の宿も終の棲家と見定めて」である。

[本稿は、季語随筆「仮の宿」から、コラムエッセイ部分を抜粋したものです。
 表題の「「仮の宿」とマッチ箱の家と」は、抜粋した本稿のために付した仮の題です。(05/12/10 記す)]
by at923ky | 2005-12-10 17:25 | 季語随筆


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