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人間を定義する

 読書の秋だという。小生も一端の読書家を気取ってみたくなり、埃を被っていた「寺田寅彦随筆集」を引っ張り出して、徒然なる侭に頁を捲ってみた。
 と、いきなりというわけではないが、興味を惹く一節に突き当たった。
 というより、寺田寅彦の随筆は、何を読んでも興味津々となってしまうのだが、その中でも一際、面白く感じられた一説だったのである。
 それは、「しかし人間は煙草以外にもいろいろの煙を作る動物であって、これが他のあらゆる動物と人間とを区別する目標になる。そうして人間の生活程度が高ければ高いほどよけいに煙を製造する」という下りである。
 別に、寺田寅彦が、この「喫煙四十年」というエッセイで、正面切って、人間の定義を為しているというわけではない。淡々とした記述の、ほんの一齣に過ぎないのである。そんな下りが随所どころか、どこの頁を捲っても見出されるから、彼の本は手放せないのである。
 念のため、参考のため、上掲のエッセイはネットでも読めるので、どうぞ:
喫煙四十年

 さて、せっかくなので、人間の定義にはどんな物があるか、幾つか思いつくままに枚挙してみたい。



 そうはいっても、小生の素養では覚束ないので、「人間 定義」というキーワードでネット検索してみた。すると、その筆頭に現れ出でたのは、「ダメ人間の定義」というサイトで、ダメ人間の定義の事例が縷縷語られている:

 なんだか、身につまされるされる面持ちがするので、あまり丁寧には覗かないで、さっさと逃げ帰ってきた。興味の湧いた方、実に覚えのある方は、どうぞ、覗いてみて欲しい。止めはしない。

 気を取り直して、上に引用した箇所に続く一文をさらに転記してみる:

蛮地では人煙が希薄であり、聚落(しゅうらく)の上に煙の立つのは民の竈(かまど)のにぎわえる表徴である。現代都市の繁栄は空気の汚濁の程度で測られる。軍国の兵力の強さもある意味ではどれだけ多くの火薬やガソリンや石炭や重油の煙を作りうるかという点に関係するように思われる


(昭和九年八月、中央公論)と文末に記してあるので、いよいよきな臭くなる時勢だったのだろうか。
 それにしても、大上段に振りかぶっての人間の定義ではなかろうに、「煙を作る動物」というのは、なかなか鋭いところを突いているのではなかろうか。瞑想を誘ってやまない。

 以下、人間を定義する有名な事例を挙げていこう:

「人間は葦である」。
 おっと、「人間は考える葦である」としておかないと、この『パンセ』の中の言葉、パスカルの名誉に関わるだろうね。
『ホモ・ルーデンス(Homo Ludens)』(遊びの人、遊戯人)オランダの歴史家ヨハン・ホイジンガ(Johan Huizinga)の著書であり、定義。小生は学生時代に、高橋英夫訳(中央公論社版『世界の名著』)で、『中世の秋』も含め、読んだものだった。この書、恐らくは、現代においては一層、読み応えのある書なのではないかと予感される。
 興味のある方は、とりあえず、例によって松岡正剛氏の紹介を読むのもいいだろう:

 松岡氏によると、「ホイジンガは「遊びのおもしろさは、どんな分析も、どんな論理的解釈も受けつけない」」という前提で本書を書いているとか。だからこそ、優れて今日的な書でありつづけるのかもしれない。
 本書におけるホイジンガの大前提は、「遊びは文化よりも古い。「ホモ・ファーベル」(作る人)よりも「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人)が先にある。」と、松岡氏は冒頭に書いている。

 というわけで、次は、「ホモ・ファーベル」である。この定義は、ベルグソンによるもの。彼もまた、小生には高校時代以来の馴染みの哲学者。彼の『形而上学入門』(『世界の名著』は、小生を興奮の坩堝に突き落としてくれたものだった。お蔭で、どう、勘違いしたものか、小生、哲学科へ進む羽目に陥ったのだった。
 と、ネット検索で、「ホモ・ファーベル」を調べると、その四番目に下記のサイトをヒット:
倫理の話 西洋思想篇 その1 人間の定義

 まさに、小生のテーマそのものが扱われている。となると、小生の出る幕ではないのだが、まあ、身の程知らずと言われようと、あと少しだけ続けておきたい。
 このサイトのお蔭で、あれこれ思い出すことができた。
「猿人」(アウストラロピテクス、Australo=南の、pithecus=猿)
「ジャワ原人=直立猿人」(ピテカントロプス・エレクトゥス、Pithec=猿、anthropos=人、Erectus=真っ直ぐ立った)
 古代ギリシアの哲学者アリストテレスの「政治的動物」
 そうそう、小生には、ちと、眩しすぎるが、「ホモ・サピエンス」を逸する訳にはいかない。「Homoとは「人」という名詞で、sapiensは「知恵のある」という形容詞、合わせて「知恵のある人」という意味」なのである。居眠りが仕事となっているこの頃の小生には、目の仇にでもしたいような定義だ。
 その他にも、「ホモ・エコノミクス」とか、一頃の(それとも今もなのか)日本人を指しての定義である「エコノミック・アニマル」も、秀逸の定義として忘失し難い。
 カッシーラーによる、「象徴をあやつる動物」も、有名である。『象徴(シンボル)形式の哲学』は、未読なので、ちょっと忸怩たる思いをしつつ、本書を掲げている。
「ホモ・デメンス(錯乱する者) 」という定義もあるとか。「自然から外れ、本能の代りに文化を発達させた動物」ということらしいが、文化の発達が、ちょっと鼻に突くが、なんとなく、慕わしい定義で、寄り添ってみたいような人間洞察なのかと思ってみたり。
「ホモ・パティエンス(病める人)」(homo patiens)なる定義もある。これもまた、誤解を恐れず、賛成したくなる定義である。この定義について、さらに首を突っ込んでみたいと思われる方は、どうぞ、下記のサイトへゴー:
1)出発点:ホモ・パティエンス(homo patiens)としての人間

「苦悩する人間、傷つき痛み苦しむことができるという人間の在り方こそ、共生を可能にする本質的なものと考え」るという、崇高な理解が示されている。

 無論、言うまでもないが、フロイトを権威として挙げるまでもなく、「性的人間」という定義もありえる。特に若いうちは、それしか目に体に映らないのではなかろうか。現代において、暇を持て余す人のかなりの人が、あからさまにか、さりげなくかは分からないが、性的享楽を追い求めたりする。
 性的にと限定しないで、人間的接触という意味では、介護の時代の大きなテーマにつながりえるものと思われる。
 と、あれこれ、人間の定義の事例を提示してきて、やっと、最初の話に戻る。
 実のところ、他にも有名乃至は重要な定義があると思われるが、もう、今日は疲れた。またの機会があったら、触れてみたい。
                                (04/10/03)
by at923ky | 2005-09-12 08:45 | 哲学エッセイ


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