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夫婦別姓の周辺


 昨日、ラジオを聞いていたら(TBSのアクセスとかいう番組だった)夫婦別姓をテーマにバトル(論戦)を展開していた。
 従来は結婚したら女性は男性の家の姓に変更することが、民法で決められているのを、今後は、民法の改正により、結婚後の女性の姓の如何は、その結婚する男女の自由な決定に委ねられるという法案が提出に向けて、いよいよ現実化してきたことを受けてのテーマ選択だったのだと思われる。
 興味深かったのは、男性は別姓に多数が反対し、女性は多数が賛成だということである。その女性たちも、いざ自分達はどうするかについては、自分は男性の姓を名乗るとしているにも関わらずである。
 やはり女性は結婚による改姓の不都合を実感をもって感じている、けれど、未だ別姓を自分が実行するには躊躇いがあるが故のアンケート結果なのだろうと思われた。
 ところで、番組の中で明治の昔、福沢諭吉は結婚したら、夫婦の間で協議して新しい名前を作れるようにしたらと提案していたらしい。
[福沢諭吉は「新婦人論」で結婚後の姓は結婚後に新しく作ってはどうか(例:山田+中村=田中)と言っている]
 実は小生も、どうせなら別姓にするくらいなら、夫婦版創氏改名を、と考えたことがあるから、昔、そんなことを考えたことがある人間が他にいると知って、面白いと思ったのである。
 小生がそんなことを考えたのも、男女同権を心底から実現するなら、男女別姓か、あるいは夫婦の姓から別の姓を創るに如くはないと思ったからである。
 ところで、この別姓の件をちょっとネットなどで調べてみたら、今のような結婚したら男性の姓を女性が名乗ると強制されるようになったのは、意外に新しくて、

1898年(明治31年):明治民法公布・施行
     ◎788条「妻は婚姻に因りて夫の家に入る」
     ◎746条「戸主及び家族は其の家の氏を称す」

と、1898年からだったのである。
 実際、1867年(明治9年):太政官指令・内務省指令では「結婚後も女性は改姓しない」

とあったというのだから、我々が思うような封建的制度なんていうのは、実は江戸の昔からというより、実は明治の半ばから、庶民に強制されたイメージそして実態だったのかもしれない。
 更に670年:日本初の全国的戸籍「庚午年籍」ができ、夫婦は同じ戸籍に入っても別姓だった。源頼朝と北条政子、足利義政と日野富子のように、日本は伝統的には夫婦は別姓である。
[以上の引用はここを参照]

 日本はつい19世紀末までは伝統的に夫婦別姓だったのである。
 それが男性の姓を名乗ることを強制されたのは、戦争(=軍国主義の台頭)が背景にあったのだと推測される。
 戦国時代や江戸時代はどうだったのだろうか。
 何かの本で読んだのだが、江戸時代は封建的だったと一般にいうが、事実、女性は鉄漿(お歯黒)を象徴的例とするように、「家」の中に閉じ込められていたというイメージが強い。
 が、少なくとも江戸の都などに関しては、数の上で男性が圧倒的に多く、女性が少なかったので(それ故、吉原などが作られた)、女性の希少価値が高く、従って、男性の女性への気遣いは大変なものだったという。
 まあ、庶民の間では姓などはなかったらしいので、男女が同姓ってこともありえないわけである。男は掃いて捨てるほどいたから、男が気に食わなかったら、女は風呂敷堤一つで他の甲斐性のある男のところへいつでも移っていけたわけである。
 しかし、実情はどうだったのだろうか。
 さて、夫婦別姓論議は、いよいよ夫婦別姓の自由へと現実味を帯びだしている。男性が甲斐性がないのか、女性の社会進出は目覚しい。未だ、女性の受け入れ態勢は整っていないとしても、男女を問わず、能力のある人材の活躍が期待される今日、男女のあり方を含め、社会の在り様は大きく変貌しそうである。



                            (01/08/25)
by at923ky | 2005-01-10 01:49 | コラムエッセイ


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