人気ブログランキング | 話題のタグを見る

神秘体験というよりも

 他の場所で、柳澤桂子氏の神秘体験にちなみ、小生自身の神秘体験について若干、触れてみた:

 ある朝、トイレの帰りだったか、玄関のドアを開いて、何の気なしに庭を眺めた。まだ庭の隅には屋根から落ちて堆積した雪の名残が見受けられた。
 何故か、庭を眺めつづけていた。すると、突然、何か炎のようなものが庭に燃え上がった。赤というより真っ白に近いような眩しい光の渦だった。それが庭で渦巻いたかと思うと、次の瞬間、その炎はある文字の形を描いた。
 その文字とは、「神」だった。

「神」という光り輝く漢字が、ほんの一瞬、それこそ閃光の如く描かれ、そしてあっという間もなく消え去った。
 気がつくと、そこにある庭はいつもの見慣れた庭で、何の痕跡もなかった。自分の幻覚か、それこそ夢なのかもしれなかった。我が目を疑うしかなかった。
 けれど、脳裏に刻み込まれた炎か光で描かれた「神」という文字だけは、それから長く<印象>となって残りつづけた。三十年以上も経った今でも、さすがに当時ほど鮮やかではないが、目を閉じるとその活字像が現れる。

                               (引用終わり)

 尚、柳澤氏の神秘体験は、柳澤桂子著『生命の不思議』(集英社文庫刊)や、下記のサイトなどで知ることができる:





 さて、小生自身の神秘体験については、内容の幾分の異常さもあり、これまで友人らにもあまり語らなかったし、まして何処にであれ、書くこともしなかった。
 それは、やはり自分の中でも異常さを感じ、語らないほうがいい、触れないほうがいいと思われてきたからだし、そう思ったのも、その体験を大袈裟に受け止めすぎたということがあるのだろう。
 三十年も胸に秘めておき、また、自分でも思い出さないようにするうちに、さすがに当時の印象は薄れている。あの目を焼き焦がすような「神」という文字も、今では夢幻の境に流れる河に浮かび流れる白い花弁の模様のように儚い。
 自分の神秘体験について触れなかったことの理由は、他にもある。
 それは、確かに自分の体験にしろ、他の方の体験の手記を読むにしろ、異常さとリアリティには圧倒されるものを覚えるのだが、しかし、ではその異常さの背景なり土台なりに何があるかを考える必要があると思われたのだ。
 小生は以前、W.ジェイムズ著の『宗教的経験の諸相 上・下』(桝田啓三郎訳、岩波文庫刊)を読んでの感想文を書いたことがある。
 その中で、以下のように書いている:

 そもそも、生きていることそのものが謎であり、驚異であり、言葉の本来の意味で有り難きことだと思うからである。何が不思議といって、雨とか風とか、木や草が育つこととか、大地があることとか、空があることとか、太陽があるとか、月が空にぽっかり浮かんでいるとか、動物や植物やそして人間が存在していることとか、ともかく、在ること自体が不思議なのである。
 そのメカニズムは科学で分析される。その細密な分析を読むと、メカニズムの凄さに圧倒される。恐らくは、今後、さらに科学は発達し、より体系立った理解が進むものと期待してよさそうである。
 が、さりながら、そんなメカニズムの想像を絶する絶妙さにも関わらず、そもそもモノがあるというそのこと自体の驚異の前には、どんなメカニズムの説明も解明も色褪せてしまう。

                             (引用終わり)

 その上で、「そもそもどうしてモノがあるのだろうか。」と素朴極まる問いを発している。
 その感想文では、また、人が人の気持ちが分かる! 共感するということの不可思議さに言及している:

 何が不思議といって、分かる! 人の気持ちに共感するというそのことの不
可思議さに匹敵することなどないのだと小生は思う(その共感するという一点において、犬や猫などの動物も恐らくは人間と同じほどの深さを蔵しているのではと内心では思っている)。

                             (引用終わり)

 その根底には、人生は一回限りだという厳粛な現実があるからだ、とも書いている。
 つまりは、神秘体験(や失恋)が哲学へ小生を誘ったのだけど、それは神秘体験が直接の契機だったというより、もっと根底に神秘体験も含め、凡そこの世に何かがあること自体の不可思議さと驚異の念、そして畏敬の念こそが、小生を突き動かしたのだ。
 無論、色即是空ではないが、この世に何かがあると思ったり感じたりするのは幻想に過ぎないという見方が在り得る。凡愚たる小生はそこまで悟りきった人間ではないのだとしても、物が常に現象し出来し衰滅していく、この儚さも厳粛な現実だとは思う。
 が、しかし、仮に色即是空が正しいのだとしても、その幻想がこの胸を掻き乱すという事実までが嘘とか虚妄なのではないだろう。思うこと感じること推測すること考えること、そうした営為として在る自分。
 小生如きに何が分かるものでもない。分かりたい、けど、分からない分かりそうにない、もっと深く感じたい、だけど心の狭い自分には世界の豊穣さはそのほんの欠片さえも受け止めきれない、そのもどかしさを含めて、世界を感じ、また、その一端を表現したいのである。 
 きっと、表現された内容ではなく表現しようとする営みに中に、感じる傷み喜び悲しむ心の定めなさの最中に、何かが顕現するかもしれない、そんなことを思うのである。


[以下の小文は小生の『宗教的経験の諸相』の読書感想を読んだ方から戴いたコメントへのレスです。詳細は、HPの掲示板などを御覧下さい。]
 Mさん、こんにちは。
 W・ジェイムズ著『宗教的経験の諸相』の読書感想を読んでくれてありがとう。
 感想の主旨でもあるのですが、神秘体験よりも、そもそも生きていること自体の不可思議さや驚異こそがはるかに神秘なのだし、そういう意味で生きていること自体が、その内容如何に関わらず神秘体験なのだと思っているのです。
 だから、ことさらに神秘体験と断らなくてもいいのであり、日々の何気ない出来事(退屈さを覚えるなら、そのアンニュイさも含め)を書き綴れば、既に神秘体験を描いていることになると思うわけです。
 当たり前で昨日と変わらないような日々であってさえも、本人にそれを感じる感性があるかどうかは別として、実はとんでもなく秘蹟に異なることのないような奇跡の河に棹差しているのだということ、そのことをもっと人々が感じてもらえたらと思ったりもします。
 小生は掌編など虚構作品を書きます。その際、あまり殺人など血生臭い事件を(メインには)描かず、せいぜい暗示するだけに留め、有り触れた日常を描こうとするのも、何も突飛な事件がなくたって、その湖面の漣(さざなみ)のような何気ない日常から、とてつもない深淵と祈りの世界が垣間見えるはずなのだし、そうしたものを描きたいと思っているからなのです。
(要は、掌編やエッセイなどでは、日常そのものが驚異であり不可思議の世界だってことを現したい、ということなのだが、難しい!)
 でも、まあ、俗に言う神秘体験とやらを書くのも読者サービスになるのでしょうね。
 それより、小生としては、Mさんのゆかしい世界の話をもっと伺いたいですね。
                                     (04/02/03)
by at923ky | 2005-07-04 22:23 | 哲学エッセイ


<< 都心の新風景 摩天楼街区の乱立 >>