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テレビゲームの未来

[ 本稿は3年程前に書いたものである。議論は精緻に(?)なったようだが、以前、その帰趨は不透明なままである。ゲームについては、ひところのビデオ以上に邪悪視されることすら、あったりする。AVものがエスカレートして、監禁・調教モノが犯罪を助長しているとも、一部では言い募っているようである。
 けれど、こうしたビデオやゲームが人の妄想を膨らませる一方、架空の中で妄想という形で行き場のない情念が蕩尽されることで現実世界での犯罪傾向を幾分なりとも緩和しているのだ、という意見も少なからず見受けられる。
 小生自身は、ビデオについては、時につい犯罪に走ってしまう異常な人、異常な事態もあるけれど、むしろ、今のところは緩和乃至浪費することで犯罪性向を緩和している側面のほうが大きいのではという感触を持っている。けれど、ゲームについては、やや否定的な観測をしている。そう、感触・観測に過ぎないのである。なかなかこうだという結論に至る決定的な論拠が見出せないというのが実状なのではなかろうか。 (05/05/29 up時追記)]

 テレビゲームがますます隆盛を極めようとしている。別名、コンピューターゲームともいう。ファミコンを使ってのゲームも含め、日本でも有数のメーカーが開発を競っている。いまや、その裾野の広がり(AIBOなど)からして、日本の基幹産業になりそうな勢いだ。
 日本市場では、「プレイステーション2」らの日本陣営とマイクロソフトの「X-Box」との熾烈な戦いが始まっている。
 ただ、そうしたシミュレーションゲームの功罪(特に罪)については、昔から言われてきた。やれ、他の遊びも含め、家族や友人との交流が減る。減るだけではなく、苦手になる(対人関係が苦手だからゲームに走る?)。
[ここでは、実際の碁盤や将棋盤の上での囲碁や将棋、カルタ、などは想定していない。あくまでモニター上でのゲームである。逆に言うとモニター上での将棋や囲碁や麻雀にのみ興じるなら、考察の想定に含まれるということ]





 以下、こうしたゲームについてマイナスに言われる点を羅列してみる:

 現実感が希薄になって、時に反社会的行動に走りがちになる。現実とゲームとの境目が自分では掴めなくなって、実際に人を害する行動を行っても、相手の苦しみや感情的苦痛を思いやることができない。
 こうしたゲームは、一種、ドラッグ(合法ドラッグ・ケミカルドラッグ・SEXドラッグ……)などと同じ効果をもつ。ますます効果の強い薬(神経への刺激の強いゲーム)に精神的に依存するようになる…。脳の特定部位に作用して、薬の効果が効いている間だけ、特定の状態(幸福感、絶頂感、至福感、苦痛からの緩和感…)が獲得される。
 こうした類いのゲームは、まるで頭を使っていない、ただ、頭の極一部の反射神経だけが刺激を受けているに過ぎない。
 たとえば、何処かでとんでもない犯罪を犯したり、家族や友人や会社(学校)でトラブルを引き起こした人物が、そのあとゲーセン(ゲームセンター)に行って遊びに興じられるというのも、つまりは、脳の大部分を休眠状態に簡単に陥らせることができ、まさに極めて単純明快な神経と感覚の刺激世界に没頭できるからなのだ…。
 
 さて、テレビゲーム(一応、この名称で総称しておく)とは、一体、何物なのだろう。本当に、一部から顰蹙を買うような、やれば興奮状態を約束されるが、所詮は低劣なゲームに過ぎないのか。
 近年、テレビゲームの功罪を実際に研究した成果が公表されるようになってきた:
テレビゲームは脳の発達を損なう?

 東北大学の研究チームが示したのは、「コンピューターゲームは視覚や動作をつかさどる脳の一部だけを刺激し、ほかの重要な機能の発達の助けにはならないこと」だという。
「研究者たちが特に心配しているのは、何時間もゲームをして遊んでいると、脳の前頭葉の発達が損なわれる子供がいるという点だ。前頭葉は行動をコントロールしたり、記憶や感情、学習能力を発達させるのに重要な役割を果たす。」
 この研究を実施したチームのリーダーである川島隆太教授は、「子供たちは前頭葉の発達を促すために、基礎的な算数や読み書きをもっと学習しなくてはならない。ビデオゲームをやりすぎると、前頭葉を発達させることができず、その結果、行動をコントロールする能力が低くなり、暴力行為に走りがちになる」と主張している。

 それに対し、メーカー側の反論も活発である:
テレビゲームは体力、精神力などの発達に有益?
 『欧州娯楽ソフトウェアパブリッシャーズ協会』(ELSPA)側の反論は、以下のとおりである:

「(東北大学の)研究は、実際にはコンピューターゲームの脳への悪影響を示しているのではない。脳の発達にとっては、特定のゲームを30分間するより、計算問題を30分間解く方が効果的だと言っているだけだ」と協会は述べた。
 また、「推理や協調など、さまざまなスキルを必要とするゲームも、純粋に教育的なゲームもたくさんある」 ともいう。
 批判を気にしてか、コンピューターの性能の向上もあり、複数でのゲームも可能になりつつある。そうなれば、友人たち(家族たち)とのコミュニケーションの機会が増大する、ということらしい。
[余談だが、ホームページの中などで「チャット」のコーナーを設けているケースをよく見かける。パソコンのネットへの常時接続が可能にした新たなコミュニケーションのステージなのだろう。これは、さて、チャットという名の遊び、シミュレーションゲームなのだろうか?]

 双方向の形でのテレビゲームが実現に至ったなら、従前、言われてきた懸念は、払拭されるということなのだろうか。
 しかし、どうやら問題は簡単ではない。形が双方向に、つまり複数で一緒にとなったところで、ゲームを動かす上で、実際に動いている脳の部分が、どれほどに限定されたものかどうかが問題なのだ。
 また、そうした貧困なる脳の機能の使用がもたらす結果が、問題なのだ。
 最近、森 昭雄著『ゲーム脳の恐怖』(生活人新書)が出た。あるサイトでのコメントの一部を引用しておこう:

「脳の前頭前野とは、意欲や判断力、情動抑制など、人間らしさを保つために重要な働きをしている部分。この部分が活性化したときに現れるのが、β波と呼ばれる脳波である。脳神経学者の著者は簡易型の脳波計を開発し、テレビゲームをしているときの脳波の動きを記録することに成功した。それによると、ゲームを始めてすぐにβ波が激減していく様子がよくわかる。β波が減っている状態というのは、痴呆者の脳波とそっくりな状態だそうだ。つまり、テレビゲームに熱中している人の脳は、痴呆者の脳と同じく、まったく活性化していないということになる。」

 一方、テレビゲームの未来を楽観的に展望する考えを示す方もいる。桝山 寛著『テレビゲーム文化論―インタラクティブ・メディアのゆくえ』(講談社現代新書)である:

 特に最終章の「テレビゲームが身体を持つ時」で主張される、「AIBOのようなロボットが身体を持つ次世代のゲームではないかとする」点は、ちょっと刺激的だ。
 ゲームが、人工知能の研究成果を取り入れて、AIBOやASIMO(後者は、まだペット型ロボットではなく、せいぜいマスコット型ロボットなのだろうが)などのように実体化すると、ゲームの評価も変貌するのだろうか。
 ペット型ロボットや介護ロボットなどは明るい未来を約束してくれるのだろうか。一定の実用性を期待しつつも、何か大きな落とし穴があるような予感があるのだが。
                                     (02/07/27)
by at923ky | 2005-05-29 00:38 | コラムエッセイ


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