日の下の花の時

 道路上で車中などから容赦ない直射日光を浴びる街路樹やグリーンベルトの花々(ツツジ)を間近に見て、そもそも書きたかったのは、別のことだった。
 緑なす葉っぱや幹などはともかく、花々に何か強烈な印象を受けていた。それは何だろうと思い返してみたら、あまりにも呆気ない理由がそこにあった。
 そう、花というのは、端的に言って性器なのであり生殖器なのだということ。
 が、それだけでは言い足りない。それは分かる。えげつなさ過ぎる表現だということもあるが、では何故、本来は単なる生殖器のはずの花が、少なくとも我々人間の目には美しく、あるいは可憐に見えてしまうのか。
 それは、犬や猫などの動物(特にその子供)が可愛く見えるように、人間の勝手な思い入れや、長年に渡る親しみ、馴染みの故に過ぎないのか。そう、選択と丹精の結果に過ぎないのか。
 小生は見逃したのだが、何年か前に、「メイプルソープ&アラーキー」の「百花乱々展」が、小田急美術館で催されたことがある。




「メイプルソープ&アラーキー」とは、日本とアメリカ代表する二人の写真家、荒木経惟とロバート・メープルソープのこと。
「花を凝視し、カメラに閉じ込め、印画紙に解き放つ作業を通して、花は「花」ではなく、別 の何かに変わる可能性をその美しさの裏側に秘めているのです。」というのが、テーマのようだ。
 さらに、下記関連サイトを参照してもいい。
 ここでは、メイプルソープ&アラーキーのそれぞれの写真が一枚ずつ見ることが出来る。また、「アラーキーは、はじめて写真を極めて個人的なコトバにかえてしまった。それは抒情でありエロスの爆発であり、涙もろくもオカシイ、諧謔に満ちた日誌、自伝であった。風景を撮っても女たちを撮っても、それはアラーキーの内宇宙に映る心情的なモノローグだ」で始まる、案内者である白石かずこ氏の言葉も素敵だ。
 締め括りの、「メイプルソープが一指もふれずに対象を思うままに被写体にする美の指揮者なら、アラーキーはまず対象につかつかと入っていって同棲し、愛撫、物語しあって、濡れる情緒でしっとりと花の媚体をくまなくなじんだ上で撮っているので、アラーキーの眼に犯された花たちは無言でアラーキーをみているのだ。したがって、メイプルソープの写真は物体としての花がうつっているが、アラーキーのは哀愁と情緒にみちた、生きた花(女)たちが性器という顔をよせてこちらをみている。いきものであり、人生なのだ。」は、なんと誘惑的な紹介であることか。
 
 花びら 花、花芯、雌蕊(めしべ) 萼(がく)根茎(こんけい)受粉 開花虫媒花 風媒花 雄蕊(おしべ)蕾  茎 冠毛 舌状花 蜜 柱頭 花粉…。

 下手なエロ小説に使いたくなる用語が花を巡って、いろいろと思い浮かぶ。

 人間にとって多くの花が魅惑的であるように、あるいはそれ以上に昆虫にとっては、花(の蜜)はなくてはならないものだろう。昆虫が花に誘われるのは、両者の長い関わりがあるのだろう。
 花は人間に好まれるように進化したのか。そういった花もあるのだろう。そうでなく、勝手に人間の生活圏に侵犯する植物は、たとえ可憐な花が咲くものであっても、雑草とされてしまう。
 同時に昆虫に受粉させるべく進化した花もあるのだろう。人目の届くところで見受けられ愛でられる花の多くが綺麗なものなのは、分かるとして、人里離れた場所にある花であっても、美しく感じるのは何故なのだろう。単に花だから? それとも、昆虫などを魅するように進化したことが、たまたま人間の審美眼にも適ったということ?
 昆虫による受粉の様子を写真と説明で。
 さて、緑の葉っぱは、まさに陽光を浴びるべく進化を遂げた。紫外線に耐性を持ち、あるいは万が一、紫外線により遺伝子が損傷を受けても、修復する遺伝子も備わっていたりもするという。
 それは、葉っぱだけではなく、花びらだって、そうした耐性などのメカニズムを備えているのだろうという。
 そうでなかったら、そもそも咲きはしないのだろうし。
 しかし、実際の花々を見てみると、花の命は短い。文字通り、儚い命を宿命付けられている。ということは、仮に(そして恐らくは)紫外線への耐性があったとしても、そのメカニズムは、葉っぱなどに備わる持続的な耐性(特に常緑樹)とは、自ずから違う脆弱なものである可能性も高いように思われる。
 そう、蕾が開花し、満開になり、受粉、受精の時を迎え、蜜や香りなど(人間の目には美しく見える花の様子もなのだろうか)、さまざまな老獪なるテクニックを駆使して昆虫や鳥などに受粉の手伝いをさせる。その間は、植物にとっての生殖器を日のもとに晒す。生物にとってそこが損傷を受けると致命的でもあるはずの性器、生殖器を紫外線その他の危険にまともに晒してまでも、受粉受精の時を持つしかない。
 蠱惑(こわく)の時、勝負の時、運命の時。束の間の装いの時。
 身を誘惑と危険との極に置いてでも、次世代のために敢えて花を咲かせる。
 が、役目を終えたなら、花の多くは(それとも花は全て?)呆気ないほどに散ってしまう。紫外線などによる損傷など初めから承知なのだろう。
 受粉が叶わなくても、多くの花は落ち、花びらは、焼け焦げ、あるいは萎れ、凋み、地の糧、地の塵となっていく。そうすることで、次世代の安泰が確保され、本体である幹や茎や枝や根っ子や葉っぱたちが生き延びられるのだ。
 花、それとも植物の奥の深さは、計り知れない。白熱する陽光の下の生きもの達のドラマは、それだけに床しい。路上で焼かれる花々を見て感動したのは、だからこそなのだと思ったのである。
                          (04/05/16)



[artshoreさんにコメントを戴いた(コメント欄を参照してください)。その際、返事を書く参考にと、ジョージア・オキーフの「花」についての言葉を捜してみた。以下に、「ジョージア・オキーフ」より転記させてもらいます:

 花はどちらかといえば小さなものです。ひとつの花から誰しもさまざまなことを思いうかべます---花の思い。手を伸ばして花に触れる---前かがみになって香をかぐ---ふと気がつくと花に接吻していることがある---そして、誰かを喜ばせてあげたくて花を贈る。それでも---ある意味で---誰も花を見はしない---本当には---それは小さすぎる---私たちは忙しすぎる---友人を作るのと同じで、見ることにも時間がかかる。私がこの目で見ているように花の絵を描くことができたとしても、私の見たものは誰にも見えない。花が小さくあるように、私もそれを小さく描くだろうから。
 だから自分に言いきかせた---自分が見ているものを描こう---私にとってのその花を。ただし、それを大きくして描こう。そうすれば、みんな驚きにかられて、時間をかけてそれを見てくれるだろうから。(ジョージア・オキーフ「私自身のこと」(1939)より)

 ”花を手にとってじっと見つめていると”---と彼女は言いながら、手を丸めてカップのようにし、顔に近づけた---”その瞬間だけ、自分の世界になるの。その世界を誰かにあげたいと思う。たいていの都会人は忙しく動きまわっているから、花を見つめる余裕がないのね。当人の意志にかかわらず、そういう人たちに花を見させたい”(Mary Braggiotti「Her Worlds Are Many,」New York Post May16,1946より)
 (転記終わり)
                               (05/04/29 追記) ]
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by at923ky | 2005-04-19 22:05 | 随想


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