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月影に寄せて

 「広辞苑」で「月影」を調べると、以下のようである:

(1)月のひかり。「月影さやかな夜」
(2)月の形。月の姿。
(3)月の光に映し出された物の姿。
(4)薄墨で竹などの模様をすり出した紙。

 手元にある事典ではデータなしとなってしまった。言葉として一般的過ぎるのだろうか。
 突拍子もなく、月影などという言葉を持ち出したのは、それなりに理由がある。
 あるサイトの掲示板に「幸せってどういうこと」という問いがされていた。その書き込みは、小生のサイトにも訪れることがある人なので、どうして小生には問いかけしないのかと思った。でも、そのサイトは論旨が明快で、なるほどそちらに問い掛けるのが自然なのだなと、納得してしまった。
 ちょっと悲しい納得ではある。
 同時に、問われなくてよかったと、妙に安心というか、もし正面切って問われたら、答えようもなかったではないかと、冷や汗が流れそうにもなった。
 そう、小生にとってどんな質問が一番、難しいかというと、「幸せ」とは何かという問いをおいて他には考えられないのである。
 なぜ、「幸せ」とは何かを問われると苦しいかというと、それを考えてこなかったし、考えない以前に求めてこなかったから、と答えるしかない。
 別に不幸になろうとか、幸せに背を向けようとか、そんな大それた発想があるわけではない。
 そうではなく、ただただ、そんなことは考えない、意識しないようにしてきただけのことなのである。
 では、どうして殊更に意識しない、まして幸せを積極的に追い求めなかったのか。
 それはつまるところ、遠い昔に、そんなものが自分にあるとか、やってくるとは到底思えなくなっていたからだ。
 その原因については、ほかでも書いたので、ここでは触れない。ただ、諦めが早いというか、気力とか意志が薄弱で、時の流れに任せるだけで、深くは考えないようにしていたことは否めない。
 何を求めるという発想法は、とにかく皆無だった。せいぜい、目先のトラブルを避けることだけに懸命だった。トラブルが生じないなら、一切、勉強はしない。落第生の烙印が押されたって、それが自分に影響しない限りは、どうでもいいのだった。
 逆に勉強したほうが、風に乗り、気楽であるのならそこそこに勉強し、とにかく目立たないことを先決の関心事としてきたのである。
 ただ、遣り過すこと。日々を流すこと。それで一生が送れるなら、何の問題もないわけである。少なくともその筈だった。
 が、そうはいっても、波風が起きるのが人生である。事なかれ主義で通していても、風は透き間を見出し、あるいはズボンの裾からでも風が舞い込み、どこにどう潜んでみても、世間の風は吹き込んでくる。
 それどころか、恋もするし、嫉妬もする。自分がのほほんと暮らしている一方で、自分の周りの人間が苦しんでいるなら、目を背けてばかりも居られない。それほど意志が強い人間ではないから、ついつい身の程知らずにも声を掛けてみたり、そうでなくとも心を砕いてしまう。感じてしまう。共感の念が湧き出てくる。

 さて、小生は自分が太陽ではないことは、さすがに自覚している。誰もがその存在が気になるような太陽の人ではないことは重々承知してる。
 太陽の人は、当人の頭の中ではあれこれ悩んでいるのだろうけれど、でも、その人の傍に居て外見に接している限りは、何かしら暖かいものを感じ取ってしまう。能天気というわけではないのだけど、生き方が前向きに感じられる。
 実際、そのように心掛けているのかもしれないし、そうではなく、ただ、愉しいこと、生き甲斐に成っていることを見出してエンジョイしているだけなのかもしれない。
 事情はどうであれ、周りにいる人は暖かくなる。何となく勇気付けられる。よし、あの人があれだけやっているのだから、自分だってと頑張ってみようと奮い立つ。
 そんな太陽の人。

 一方、自分を振り返ると、太陽など論外で、せいぜいが月である。太陽の光を浴びて、やっと輝いている月に見立てるのが、やっとなのである。それだって、贅沢すぎる表現だと思うのだけれど。
 女性は元始太陽であったという言葉がある。敷衍すると、人間は誰しもが太陽なのかもしれないと思う。地上の星々でも書いたように、地上に生きている全ての人が、それぞれに星であり、太陽なのだ。生きとし生ける全ての存在が、太陽であり星なのである。
 あまりに当たり前に地上のこの世界に星々が煌いているから、そうした事実に気が付かないのだ。自分だって実は太陽であり星となっていることがわからないのだ。
 その中で、自分という存在を少しだけ振り返ってみると、星でもなく、まして太陽でもない。
 だけれど、それなりに生きてきて、多少なりとも縁を持った人には幸せになってもらいたいと切に思う気持ちがある。自分のことを差し置いて、そんなことを思うのは僭越だと思うのだけれど、生意気かもしれないけれど、そう思ってしまう。
 が、思うだけの人間である。思ったからといって何をするわけでもない。何ができるわけもない。
 でも、自分のことはともかく、周りの顔を知る人たちには、幸せにと願わずには居られないのだ。変なのだろうか。可笑しいのかもしれない。
 そんな自分に何ができるのだろうか。何ができるわけもないと、すぐ手前で書いていて、舌の根も乾かないうちに、ないができるのだろうかと問う、その愚かしさ。
 小生は、書くことに全ての情熱を傾けている。
 書いている内容や、深さ広さに難があっても、とにかく世界の一端をでもいいから触れたいと思っている。表現したいと思っている。書くとは恥を掻くことというのが、自戒の言葉というか、モットーに近い表現なのだが、それでも、飽くことなく、ありとあらゆる由無し事を書き綴るというのは、別に知識を広めるためでも、薀蓄を傾けるためでもなく、書きながら何事か新しいことを調べ、あるいは何か興味を惹く何かに触れたならその何かを紙の上に少しでも定着させたいからだ。
 書くとは、ある種の懇願の営為なのだと思う。
 何への憧憬か。
 それは、生きること自体の不可思議への詠嘆であり、この世に何があるのだろうとしても、とにかく何かしらがあるということ自体の不可思議への感動なのだ。この世は無なのかもしれない。胸の焦慮も切望も痛みも慟哭も、その一切合切がただの戯言、寄せては返す波に掻き消される夢の形に過ぎないのかもしれない。
 でも、たった今、ここにおいて感じる魂があるということ、それは、つまりはこの地上世界に無数に感じ愛し悩み喜び怒り絶望し感激する無数の魂のあることのこの上ない証拠なのであって(だって、自分だけが特別なはずがないのだ。誰もが一個の掛け替えのない存在なのだとしても)、その感じる世界の存在は否定できないような気がするのである。

 さて、話は戻る。小生は太陽でもなければ、地上の星々の一粒でさえないのかもしれない。
 でも、どんな塵や埃であっても、陽光を浴びることはできる。その浴びた光の賜物を跳ね返すことくらいはできる。己の中に光を取り込むことはできないのだとしても。
 月の形は変幻する。満ちたり欠けたり、忙しい。時には雲間に隠れて姿が見えないこともあるだろう。でも、それでも、月は命のある限り、日の光を浴び、そして反射し、地上の闇の時を照らそうとしている。
 月の影は、闇が深ければ深いほど、輪郭が鮮やかである。懸命に物の、人の、生き物の、建物の形をなぞろうとしている。地上世界の命を愛でている。柔らかな光となって世界を満遍なく満ち溢れようとする。月がなかったら、陽光が闇夜にあって、ただ突き抜けていくはずが、その乾いた一身に光を受け止め跳ね返し、真の闇を許すまじと浮かんでいる。忘れ去られることのほうが実際には遥かに多いのに。
 月の光は、優しい。陽光のようにこの世の全ての形を炙り出し、曝け出し、分け隔てするようなことはしない。ある柔らかな曖昧さの中に全てを漂わせ浮かばせる。形を、せいぜい輪郭だけでそれと知らせ、大切なのは、恋い焦がれる魂と憧れてやまない心なのだと教えてくれる。
 せめて、月の影ほどに、この世に寄り添いたいと思う。
 太陽の光も素晴らしい。けれど、陽光を浴びた月が惜しげもなくこの世に光を満たしていることを思うことも素晴らしい。
 窓の外の定かならぬ月影を見ながら、そんなことを思ったのだった。
 
 最後まで読んでくれた方のために、西行法師の歌を一つ:


月のみや うはの空なるかたみにて 

  思ひもいでば 心かよはん


                                (03/11/25)
by at923ky | 2005-03-19 13:55 | 随想


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