K筆「街の緑」に寄せて

 Kさん、こんにちは。
「街の緑」というテーマと、杜の都・仙台についての話題ということで、ちょっとお邪魔したくなりました。
 東京は確かに地図上は緑が多いんですね。
 ただ、緑が代々木公園とか新宿御苑とか、青山墓地とか、元赤坂や皇居、上野の公園など、大きな緑地が点在しているわけです。
 小生の住む地域も、工場の多い街で、住宅街と工場(こうば)とがひしめき合っているんですが、それでも、住宅の庭先やベランダなどにささやかな緑の憩いの空間を持とうと務めているようです。
 並木道もあるんですが、狭い道路に無理矢理並んでいるようで、どことなく肩身の狭い、窮屈な感じを覚えてしまいます。
 おっしゃられるように緑の道を増やし、また繋げていって、歩くに楽しい街にしたいものです。
 と、思ったら、東京都議会は、「東京の緑化推進に関する決議」を出しているのを思い出しました:

 これを読んで気が付くのは、特に後段の「建築物の屋上や壁面の緑化について、都関連施設や公共建築物から早急にこれを推進」というくだりです。
 実際的に自由にできる土地が少ない以上、緑化の余地は屋上や壁面ということになるんでしょうね。
 ということは、飛行機や高層のマンションに住む方の目には、やがては東京の街が緑の街になるということなのでしょう。でも、地上を歩くと、依然として壁面以外は、アスファルトかコンクリート、ガラス、プラスチックの塊ばかりというわけです。
 そういえば、古いビルだと、壁面にツタのようなものが鬱蒼と蔓延っていることがあります。あれはわざとやっているのでしょうか。壁面を緑化するというのは、将来はああしたビルが増えるということなのだろうか。
 小生などが思うに、高層のビルがこれからもドンドン建つようだけれど、その形を今、建ちつつあるような殺風景な、味も素っ気もないビルの形にするのではなく、もっと、ガウディなみとはいかなくても、カオス風な、奇抜な形にし、その表面を緑化したらどうでしょうか。
 それに道路の舗装の色だって、何もねずみ色にしなければいけない理由などないはずです。土の色にしたらと思うのです。そうすれば、道路標識の白や黄色のペイントも、一層、鮮やかに際立つと思うし、道路全体は土の色(茶色系)で目に優しいし。
 そう、ビルの壁面も、目に優しい色に(緑色系)に変えていけばとも思います。
 そうえいば、草の繁殖が可能なコンクリートの開発が進んでいるそうです。たとえば、護岸工事でもそうした緑化を前提にした方法を取るなら、景観上も、随分、違ってくることが期待できそうです:
 http://www.tsuru-con.co.jp/html/vegecret/

 それと、街中の物資の輸送も、江戸の昔みたいに、運河の利用という手段を回復することも選択肢の一つにあっていいようにおもいます。そうすれば、市街地のヒートアイランド現象の緩和にも役立つでしょうし。
 
 杜の都・仙台へは、通過以外に、もう久しく足を運んでいません。小生が卒業してから、大規模な工事が街中で相当にされていたようで、小生が知っている杜の都・仙台とは様変わりしているんじゃないかと、若干、心配です。
 相変わらず、杜の都・仙台という名に恥じない街なのでしょうか。
                                    (02/06/16)
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# by at923ky | 2005-10-28 12:56 | コラムエッセイ

通草…山女の謎

季題【季語】紹介 【10月の季題(季語)一例】」に載る季語(季題)の例の数々を見ていて、前々から気になる季語があった。
 それが、表題にある「通草」である。
 小生、この言葉が読めない。
 一瞬、目にした時は、「道草(みちくさ)」かと思った。道草を俳諧の世界では風流にこう表記するのか、うん、「みちくさ」なら、何か書けるかもしれない…、小学校の時、行く当てもなくてなんとなくブラブラして時間をつぶしていたことがあった…ような記憶があるし…、大学生の頃、まあ、いい年をして道草でもないだろうけど、学校からの帰り道、下宿への道を一時間半掛けて歩いて帰ったことが何度となくあった…そのときのことを少し、書いてみるのもいいかな…。
 ま、そんな思惑もあった(それどころか、場合によっては、久しぶりに「道草」を題名に、あるいはテーマに掌編を綴ってみるのもいいかも、なんて色気さえ抱いていたり)。

 さて、「通草 季語」でネット検索して、びっくり。
「通草」って、「あけび」と読むのだ!
E & C 「花通草」」によると、「通草と記して「あけび」と呼ぶ。秋、艶ややに熟した実をつけるので秋の季語とされるが花は春に咲く」とあるではないか。思わず、「あけびーー」と叫びたくなる気分だ。

この先が本題なんだってば!
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# by at923ky | 2005-10-24 00:06 | 季語随筆

葡萄とワインの間に

 過日、【10月の季題(季語)一例】に「葡萄」という季語が見出されたので、表題(テーマ)として採り上げるつもりで書き出したのはいいが、「万葉の恋は孤悲とも鳥渡る」なる句が目に飛び込んできたばっかりに、話が大きく逸れてしまった。
 そう、この句の中の、「恋」が「孤悲」と万葉集の中では表記されていることを知り、その辺りのことを調べてみたくなってしまったのだ。
 
 今日こそは、「葡萄」に焦点を合わせていくつもりである。
 さて、ネット検索して分かることは、敢えて季語としての葡萄について説明しているサイトは少ないということ。何ゆえ、葡萄が秋の季語なのか。葡萄狩りという季語乃至はそういった行楽が秋ともなると行われる。
 それは今のわれわれにも慣れ親しんだ光景であり話題の種である、ということか。
 その意味で、「葡萄」が秋の季語だと、今更ながらに説明するのも野暮なのかもしれない。

これから先が本文なんだよ!
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# by at923ky | 2005-10-23 01:41 | 季語随筆

稲架は…「はざ」と読む

俳句ステーション」さんサイトの「【10月の季題(季語)一例】」を例によって取り留めなく眺めている。
「10月は季題が一年の中で一番少ないよう」だというけれど、それでも季語随筆の表題(テーマ)として選ぶとなると、迷う。
 どの季語(季題)も歴史があり、古今の多くの方たちの思い入れがあり、また実際に詠み込まれてきたのだろうし。
 と、なぜということもなく、今日は、いかにも地味そうな「稲架」に目が留まった。隣の「稲刈」でも良さそうなものだが、もう、その時期は郷里(富山の平野部)ではさすがに過ぎている。
 新米も、まあ、食べるだけは食べて、古米にまた戻っていたりする。

「稲架」は「はざ」あるいは「はさ」、または「いなか」などと読まれ、「稲架掛 稲架組む 稲積 稲塚 稲干す」などの類語・関連語があるようである。
 意味というのは、ほとんど文字通りで、「刈取った稲を掛けわたし乾燥させる為の木組み」というもの。刈り取った稲から籾を取るには、脱穀という作業を経る必要があるが、刈り取ったばかりの稲は湿っぽく、すぐには脱穀の作業に取り掛かるには難がある。

優嵐歳時記」の「掛稲」を覗くと、まさにこれが「稲架(はざ)」だという画像を見ることができる(「掛稲(かけいね)」と読む)。
 文中、「姫路あたりでは木組みに一本の竹などを横渡しにして稲を掛けますが、場所によっては何段にも積み重ねるところもあ」るとしているが、小生が郷里に居住していた頃は、竹ではなくて「まるたんぼう」(角材ではなく丸い形の数メートルの木の棒切れ)を横渡しにし三段から五段くらい積み重ねるようにして稲を架けていたような記憶がある。
 つまり、上掲の「稲架(はざ)」の画像よりは高かったはずなのである。

ここまで来たら、続きを読んでほしいな
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# by at923ky | 2005-10-22 01:36 | 季語随筆

朱欒…さぼん

季題【季語】紹介 【10月の季題(季語)一例】」を眺めていて、気になりつつも、漢字が読めないばかりに、つい目を背けてしまう季語がある。
 それが今日の表題に選んだ「朱欒」である。
「朱鷺」に似ているようでもあるが、違うことは小生も分かる。(ちなみに、「朱鷺」は「しゅろ」と読み、鳥トキの異名である。ちなみついでに書けば、小生が帰郷の際などに東京から上越新幹線を使う新幹線の愛称が「トキ」なので、敢えて漢字で表記すれば、「朱鷺」となるのかもしれない)。

c0008789_2349023.jpg さて、もったいぶるのはよそう。小生だって今、調べてみて分かったのだし。「朱欒」は「ざぼん」と読む。
 そう、果物の「ざぼん」である。別名は、「文旦 (ぶんたん)」である。
季節の花 300」の「文旦 (ぶんたん)」なる頁を覗いて画像をまず見てみる。

↑20日夕刻、家の直近の駅近くにて。月影は分かるとして、その右斜め上に小さく星影が…。

 その上で、説明を読むと、「東南アジアのマレーシア原産」であり、「17世紀頃、中国の船が難破して鹿児島県に漂着したが、その船に乗せていた文旦が国内で広まった。 名前はそのときの船の船長の名前、謝文旦さんの名をとって命名された」とある。
「みかん類では最大の実をつける」とか。
 さすがに果物にも疎い小生だが、「ザボン」と聞くと、現物が思い浮かぶ。しばしばというわけではないが、時折は食卓で見たりしたことはある。
 ポルトガル語の「zamboa」が「朱欒(ざぼん)」として表記されたのだろうか。

続きがあるんだよ
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# by at923ky | 2005-10-21 02:07 | 随想

雨月

季題【季語】紹介 【9月の季題(季語)一例】」を眺めていて、まだ採り上げていない季語の中にも、気になる言葉が幾つも見出される。
「秋の夜、夜長、夜なべ、夜食、名月、月見、無月、雨月、枝豆、芋、十六夜、子規忌」…。
「十六夜」も「子規忌」も、まだ早い。「名月」や「月見」はこの先、何度でも触れることになるだろう。
「曼珠沙華、鶏頭、雁、秋扇、秋刀魚」なども気にかかるし、あれこれ書けそうだが、やはり時期尚早の感が強い。
 で、昨夜半過ぎの猛烈な雨もあり、「雨月」など調べてみようと思う。
 それにしても、月をめぐっては実にさまざまなことが語られ感じられ思い入れされてきたことだ。小生にしても、せっかちなもので、既につい最近、「夕月夜…秋の月をめぐって」を書いたばかりなのだった。

 さて、「雨月」というと「雨月物語」と、紋切り型の知識しかなく、かといって、上田秋成の「雨月物語」は、読んだことは二度ほどはあっても、小生に作家やその世界について語るほどの準備があるはずもない。
(「雨月物語」については、松岡正剛氏の「千夜千冊」をどうぞ。)
さきわいみゅーじあむ」の「今月の季語 9月1日~30日(陰暦8月4日~9月3日)」(名月(めいげつ)」の項)によると、名月の夜に雲がかかって中秋の名月に接することができないことを無月(むげつ)、雨のために全く見られないことを雨月(うげつ)、空気が澄みわたり、中秋の月光が輝く夜を良夜(りょうや)とい」うのだとか。
「雨月」には、「雨の月」という季語表現もあるとか。
 中秋の名月は愛でることができることを期待しつつ、さらい「雨月」の周辺を見てみたい。
 ネット検索していたら、「雪月花 季節を感じて」という素敵なサイトを発見。その「あ~お で始まる ことば歳時記」の「雨月(うげつ)」の項を見ると、「陰暦八月十五日の仲秋の名月が、雨にたたられて見えないこと。姿は見えなくとも、時折雲の切れ間から月の光がもれて明るんだり、雨の合間にほの明るくなる様子にすら情趣を感じていた古人のこころが偲ばれます」とある。
 やはり、雨に祟られていても、月影を恋焦がれる古人の思い、ということになるのか。
 実際には、月影がまずは望めないからこその「雨月」のような気がするのだが。
(05/09/15am)

続きが肝腎かも
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# by at923ky | 2005-09-16 23:46 | 随想

秋の蝶

俳句歳時記」の「季語集・秋」によると、「秋の蝶(あきのちょう)」は、「秋に見かける蝶をいう、しじみ貝に似て紫色の小さなものがしじみ蝶」で類義語・類語に「秋蝶、しじみ蝶」などがあるとか。
 類語というわけではないが、「秋の蚊」や「秋の蝿」「秋の蝉」などは、どことなく同じ風情を予感させる語群に思われる。
「秋の蚊」は、同上サイトによると、「残る蚊 別れ蚊 蚊の名残」といった類語があり、「秋まで残る蚊を言うが飛び方も弱々しく刺す力も弱くなる」といった光景。
「秋の蝿」は、「秋冷の頃の蠅は元気がなくなり、もっぱら日なたを力なく飛ぶ」という。「残る蠅」が類語としてある。
「秋の蝉」は、「夏の合唱するような鳴き方ではなく、あちこちで澄んで鳴く蝉のこと」だとか。類語は、「秋蝉 残る蝉」のよう。
列挙しておくと、「秋の蜂」は、」「春夏とも活動しているが、冬眠に入るまでの間活発に飛び回る」で「残る蜂」。
「秋の螢」は、「初秋の螢、光も乏しく盛時を過ぎてからの螢なので哀れ深い」で、「秋蛍 残る螢 病螢」。
「赤蜻蛉」という季語があって、「秋空に群れる赤蜻蛉の姿は爽涼で秋そのもの」であり、「茜蜻蛉」という類語があるとか。ガキの頃、暮れなずむ空の下、赤トンボなどを追うころには、夏休みも終わりだったりする。夏の終わりというより、休みが終わるほうが寂しい、つまらない、ガッカリと言う気持ちが強かったような。 
 学校へ行けば仲間に会える楽しみがあるはずだけど、自分については憂鬱の感を覚えていたようだ。勉強も嫌いだったし、小学生になって間もない頃は特に授業が嫌だった…、先生が嫌いだった。
 子供心に先生も自分のことを嫌っているのを嗅ぎ取っていた。できればできの悪いガキなどいないほうがありがたかったのだろう。その意味じゃ、先生も小生のようなボンクラが教室にいて、苦労したことと思われ、今となっては同情の感が強い。

続きを読んでね
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# by at923ky | 2005-09-16 15:16 | 随想

秋扇

 季語表を眺めていたら、「秋扇」という(小生には)不思議な季語のあることに気づく。
 読みは、「あきあふぎ」、あるいは「あきおうぎ」。
 何も今日になって、いきなり気づいたわけではない。なんとなく、分かりやすそうであり、それでいてとっつきにくい感もあったりして、採り上げるのを先延ばしにしていた。
 早速、ネット検索。
水中散歩」さんサイトの「秋扇」なる頁に、「夏が去るころ。不要となってくるものがあります。それが、扇子。
扇で風を送る必要もなくなってくる時期を、「秋扇」と表現するのですが」といった一文を見出した。
 さらに「谺(2005・09)」の、「小林康治『虚実』の世界Ⅰ……山本一歩」を覗かせてもらう。
「秋扇故なく老いてしまひけり」という句が示され、そこに鑑賞が施されている。


c0008789_1134435.jpg
→星の待受画面HP


 つい、勝手に転記したくなる:

「秋扇」の淋しさは「老」の淋しさであった。別に何か理由があって秋扇になった訳ではない。季節が移り変われば自然に扇は秋扇になる。人間もまたその通り。人間が老いるについて理由などないのだ。毎日毎日を必死に生きようと、だらだら過ごそうとみな平等に老いる。そしてその結果が今この句を詠んでいる小林康治なのであった。


 なるほど、段々とイメージが形を成してきた…ような。

続きがあるよ
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# by at923ky | 2005-09-16 10:34 | 季語随筆

人間を定義する(続)

 前稿は、「あれこれ、人間の定義の事例を提示してきて、やっと、最初の話に戻る。実のところ、他にも有名乃至は重要な定義があると思われるが、もう、今日は疲れた。またの機会があったら、触れてみたい。」と、なんだか、中途半端な形で終わっている。
 これを尻切れトンボというのだろう。
 実は、この稿を書いていて、途中で何だか意気消沈してしまったのである。最初のうちは、少しはあったパワーが、高かったテンションが、末尾に近付くにしたがって、一気に電池切れしてしまった。
 その理由は、まあ、人間の定義にはいろいろあり、枚挙するのも容易ではないということもあるし、では、自分なりの定義を仮説の形であれ提案できるのかというと、それはちょっと能を越えていて、自分には無理難題である、己の能の乏しさに愕然とするものがあるという理由もなくはない。
 が、少なくとも後者は今になって分かったことではない。だから、愕然とするなんてのは、嘘がある。
 実は、寺田寅彦が、「喫煙四十年」というエッセイで示した、「しかし人間は煙草以外にもいろいろの煙を作る動物であって、これが他のあらゆる動物と人間とを区別する目標になる。そうして人間の生活程度が高ければ高いほどよけいに煙を製造する」という下り、その焦点は、「煙を作る動物」にあるのであり、なるほど、人間は、煙を作る動物だと、言われてみると、その通りだと、ちーとばかり寺田寅彦の卓見に感心し感激したものだった。

続きをどうぞ
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# by at923ky | 2005-09-12 08:54 | 哲学エッセイ

人間を定義する

 読書の秋だという。小生も一端の読書家を気取ってみたくなり、埃を被っていた「寺田寅彦随筆集」を引っ張り出して、徒然なる侭に頁を捲ってみた。
 と、いきなりというわけではないが、興味を惹く一節に突き当たった。
 というより、寺田寅彦の随筆は、何を読んでも興味津々となってしまうのだが、その中でも一際、面白く感じられた一説だったのである。
 それは、「しかし人間は煙草以外にもいろいろの煙を作る動物であって、これが他のあらゆる動物と人間とを区別する目標になる。そうして人間の生活程度が高ければ高いほどよけいに煙を製造する」という下りである。
 別に、寺田寅彦が、この「喫煙四十年」というエッセイで、正面切って、人間の定義を為しているというわけではない。淡々とした記述の、ほんの一齣に過ぎないのである。そんな下りが随所どころか、どこの頁を捲っても見出されるから、彼の本は手放せないのである。
 念のため、参考のため、上掲のエッセイはネットでも読めるので、どうぞ:
喫煙四十年

 さて、せっかくなので、人間の定義にはどんな物があるか、幾つか思いつくままに枚挙してみたい。

続きをどうぞ
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# by at923ky | 2005-09-12 08:45 | 哲学エッセイ