山田かまち…

「山田かまち…」

 幾度となく耳にはしている。だけど、ちゃんとは知らない、そんな人物が世の中にはたくさんいる。
 「山田かまち」も小生には、その一人である。
 昨夜、ラジオ深夜便を聞いていたら、山田かまちの母親が「かまち」を語る、ということで小一時間に渡って、山田かまちについて縷縷語ってくれていた。
 その放送を聞いて、小生は初めて山田かまちという人物像を知ったわけである。
 山田かまちは天才少年画家と呼ばれ、一部の識者に将来を嘱望されていた画家だったという。
 が、ある日、感電死してしまった。エレキギターにも凝っていたというから、その関連での事故だったのか、その詳細は聞き逃した。
 ネットで検索してみたら、山田かまちというホームページがあった。色使いの印象的な絵を画面上でも見ることが出来るので、一応、紹介しておこう。

http://www.wind.ne.jp/emi-mh/ykmuse/ykmuse1.htm


                                 (01/08/10)
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# by at923ky | 2004-12-11 23:58 | 人物紹介

永倉萬治さんだって

「永倉萬治さんだって」

 昨夜、車の中でラジオを聞いていたら、ナガクラマンジさんという馴染みのない作家が扱われていた。恥ずかしながら、小生には恐らく初耳である。
 正確に言うと、永倉萬治(本名は長岡恭一)という作家の奥さんがNHKアナウンサーの森川靄子さんにインタヴューされていたのだ。奥さんの名前は、長倉有子という。その奥さんが、作家永倉萬治の完成し切れなかった作品を完成し刊行に至ったこともあり、この度の登場となったようだ。
 詳しい経緯や経歴などは以下のサイトで示すが、もしかしたらNHKドラマ「父帰る」のモデルとなった人、というと、ああ、あの人、と思い出される人もいるかもしれない。「言葉と半身マヒ克服した作家」ということで、黒柳徹子女史の「徹子の部屋」に98年に出演されたこともある:
 http://www.tv-asahi.co.jp/tetsuko/backno/html/980310.html
 平成元年に脳溢血に倒れ、作家としての復帰は絶望視されたこともあったのに、懸命の努力と奥さんの介護もあり、作家活動を再開したのだった。
 その作家も、一昨年、ついに永眠された。
 今のともすると自信を喪失したり、不況の克服を国頼りしがちになる、今日、彼の人柄と文学世界に触れてみるのもいいのではないか。
 ネットで永倉萬治さんのファンサイトを見つけた。興味のある方は覗いて見てください:
「なんたって永倉萬治!!」: http://www2.ttcn.ne.jp/~HOME1/sub13.htm



                               (02/01/24)
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# by at923ky | 2004-12-11 23:56 | 人物紹介

明石海人って誰?

「明石海人って誰?」

 昨夜半過ぎ、車を運転していて、NHKラジオ放送を聞いていたら、明石海人のことについて、何処かの大学の研究者(日本大学短期学部のオカノヒサヨと聞いたが、正しくは分からない)が、インタビューに答える形で、研究成果を説明していた。
 恥ずかしながら、小生は明石海人のことは何も知らない。
 尤も、夏前、ハンセン病判決に絡んで世論が沸いた頃、チラッとだが、名前を伺ったような気がするが、あまり深く追求しようという気にはなれなかった。別に詳しく紹介されてもいなかったし。
 でも、作夜半の説明で興味を抱いた。が、同乗する人もおり、運転している最中でもあり、しっかりラジオの放送に聞き入るわけにもいかず、今日、夜になって、ようやくネットで検索して、ほんのプロフィール程度は知ることが出来た。
 実は、ラジオでアカシカイジンとかアカシタイジンとか言っているが、よく聞き取れない。カカシカイジンとも聞きようによっては聞ける。要するに小生の知識はその程度だったのである。
 しかもラジオではハクビョウとか何とかいう言葉が幾度も出てくる。段々、白猫と表記するらしいことが知れてきた。その「白猫」は当時としては異例の20万部のベストセラーとなったという。
 ハンセン病に罹り、39歳という若さで長島愛生園で最後を迎えられたということも。あるいは短歌を創作していたことも。
 さて、ネットによると、以下のようである。

 明石海人:(1901-1939)本名は野田勝太郎。昭和14年2月に「白猫」を発表。その年の6月13日死亡(詳しくは以下のサイトを御覧下さい)。
 http://www.health-net.or.jp/kenkonet/html/dantai/hansen/hs52.html
 http://www.nch.ed.jp/maruko/36.html (こちらでは明石海人は30歳で死亡
したことになっている??)

 ラジオでも紹介されていたようだが(ラジオを聞いていた時は、深海、魚族、光などの単語しか聞き取れなかった)、「白猫」の巻頭に彼が掲げたという「深海に生きる魚族のように、自ら燃えなければ何処にも光はない」という言葉は印象的である。
 歌集「白猫」は今も入手可能なのだろうか。
 誰か明石海人について詳しい人がいたら教えて欲しい。



                                  (01/09/27)
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# by at923ky | 2004-12-11 23:54 | 随想

鰤(ぶり)起こし

 富山県の氷見魚市場には、11月半ばから富山湾の冬の味覚である、ブリの水揚げが始まっている。尤も、既に10月から網に掛かりだしているが、活況を呈するのは、やはり、晩秋の11月も半ば過ぎということになるようだ。
 ブリについては、10月末の日記、「「秋霖」追記と冬の雷のこと」において、若干、触れている。
 当該の箇所を転記しておくと:

寒ブリというと、「ブリ街道」を思い起こすし、「氷見の寒ブリといえば、東京の築地市場でも高値で取引されるブランド品」だったりする。正月の帰省の折には、ブリの照り焼きや、天然ブリのお造りなどを食べるのが楽しみである。
 その寒ブリについて、冬の雷に関連付けると、「晩秋から初冬にかけて、富山湾では、雷鳴とともにシケに見舞われることがあります。これがブリの豊漁を告げる「ブリ起こし」です」となるわけである。
 富山で採れるブリには、養殖モノはない、すべてが天然もの、なのである。
 小生自身、「ブリ街道」は、「ノーベル街道」ということで、雑文「ノーベル街道をちょっとローカルに見る」を書いたことがある。
(転記終わり)

 文中にある、「ブリ起こし」は、晩秋から初冬にかけての北陸の雷(及び時化)を意味する。冬の季語でもある。鰤(ブリ)自体、冬(12月)の季語なのだ。
 その北陸で多い冬の雷のことも、同日の日記に書いてあるので、気が向いたら覗いてみて欲しい。

 冬の雷、寒ブリ、冬の漁、時化(シケ)、小生、冬の雷は幾度か見舞われたことがあるが、さすがに、ブリ漁をこの目で見たことはない。テレビでなら、冬場になると、必ずといっていいほど、ニュース番組に映像が流れる。
 この勇壮な映像は、富山だけのローカルな情報ではないようで、時に全国的にも流されるから、見たことのある人も多いのではなかろうか。
 
[今日のこの「無精庵徒然草」だが、プロバイダーのメンテナンスということで、今ごろになって、やっと書いているわけである。
 お知らせだと、「12/9(木)5:00-15:00 の約10時間、メンテナンスを行います (2004/12/08)」が、「2004/12/ 9(木) 10:00-18:00 の約8時間アクセス解析のメンテナンスを行います (2004/12/08)」となり、今度は、「メンテナンス終了時間を 17:00 から 20:00まで延長いたします。ご迷惑をおかけし大変申し訳ありませんが、何卒よろしくお願い申し上げます。 (2004/12/09)」となっていた。
 かなり苦労しているようで、終了予定の時間が、午後の3時のはずが、6時になり、とうとう8時になった。
 仕方ないので、他のサイトにコラム「科学コンプレックス? それとも、科学カフェ」を書いたり、新たに「駄文・駄洒落・語源探索」の部屋を立ち上げたりしていた。]

 今日は、昨日、ラジオで聴いたアイク・ケベックの話題でも採り上げようと思っていたが、上記の事情で書く機会を逸してしまった。
 知る人は知っているなのだろうが、小生はテナー・サックス奏者アイク・ケベックの名前は、初耳である。ソウルやサンバ、ボサノバを独自に融合させた音楽のようだが、新鮮な感覚で聴くことができた。
 昨日は、リストか誰かクラシック音楽をも独特に料理して聴かせてくれた。
 参考のため、ネット検索で見つけた彼についての紹介を転記しておく:

1962年、テナー・サックス奏者アイク・ケベックには未来がほとんど残されていなかった。それを知ったアルフレッド・ライオン(プロデューサー)は1曲でも多くケベックの演奏を記録すべく、積極的にレコーディングを行なう。背景には治療費の援助という側面もあった。ちなみにケベックはブルーノートともっとも縁の深いミュージシャン、かつてはスカウトマンとしても貢献した。その年の10月、リーダーとして結果的に最後となるレコーディングが行なわれる。テーマはボサ・ノヴァとソウルの融合。ケベックの味わい深いサックス・ソロはケニー・バレルの参加によってさらに鋭い光沢を放つ。3か月後、アイク・ケベック、他界す。享年44。
(転記終わり)


 ブリ漁を炬燵で想い舌鼓
 鰤(ぶり)起こし吹雪きの橋の花火かな
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# by at923ky | 2004-12-09 20:05 | 随想

科学コンプレックス? それとも、科学カフェ

 7日の火曜日、経済協力開発機構(OECD)が昨年実施した国際的な学習到達度調査の結果が、世界で同時に公表された。その内容については、テレビ・ラジオ・新聞などを通じて伝えられている:
「OECD生徒の学習到達度調査(PISA)《2000年調査国際結果の要約》」
 http://www.mext.go.jp/b_menu/toukei/001/index28.htm
 結果を簡単に言うと、日本の学力(世界の中での相対的な位置)は、3年前に比べ、歴然と落ちたということだ。この結果を受けて、教育関係者を中心に大いに憂える声が聞かれたものだった。
 日本の学力は全般的には上位にあるものに、落ち込みが目立つのは「読解力」だという。小生も苦手なものだ。
 読解力というより以前に、そもそも長文を読むのが苦手、乃至は億劫になってきている。が、小生のようなロートルはともかく、若い人に顕著にそういった傾向が現れているというのである。
 本を読まなくなったという。読書という習慣が廃れてしまったわけではないが、かなりマイナーな習慣になりつつあるのは確かのようだ。
 仮に読まれても、雑誌やパンフレットがメインとか。
 一方、若い人を中心に手紙は勿論だが、文章を書く習慣が薄らいだとも伝えられている。その実、携帯電話(やパソコン)の普及で、メールの遣り取りが頻繁になり、短文ではあるが、若い人は結構、文章を書いているんだという見方も一部ではされている。
 また、小説についても、文庫本でさえ読まれることが少なくなった反面、やはり携帯電話でのプチ小説が流行りつつあるとか。
 一体、実態は、どうなっているのか。
 ただ、短文の小説は(一部で)読まれ、あるいはメールの形で遣り取りはされているが、長文となると、読書を含め、敬遠がちなのは変わっていないようである。
 数学や物理など理数系が、受験のために仕方なっく取り組まれるとしても、それ以外では見向きもされない。科学・技術、病気など医療面も含めて、面倒なこと、分からないことは、誰か専門家に丸投げしてお伺いを立てる。
 当然のようだが、何かおかしい。
 専門家に任せるのは、妥当なように見えて、当人の判断・思考がまるで見えてこない。どんな問題についても、そもそもどの専門家に伺えばいいのか、その判断は自分でするしかない。では、どの専門家に聞くかをどうやって判断するか、結局は自分たちが予め、多少なりとも勉強するしかないのである。
 そうでないと、病気になり、あるいは分からないことがあって、専門家の門を叩くとして、町の噂で、あるいはたまたま近所にあるから、宣伝が上手だったので、それで選ぶという行き当たりバッタリの選択方法しか、できなくなる。
 一頃は、理数系が敬遠されていたのが、もっと広く、長文が、つまりは、読解力・思考力の必要な分野が敬遠されてきた。面倒なことがドンドン、追いやられ、他人任せになり、いざ、自分が必要な場面に遭遇しても、偶然に任せるか、たまたま目にした雑誌の断片的な知識を鵜呑みにする…、そうでなかったら、新聞の記事を丸呑みする。

 政治・経済・社会にしても、世界の動向や実情が複雑怪奇になり、イデオロギー的に凝り固まった(右翼ないし保守傾向、あるいは良識が謳い文句)の新聞の論調(多くは見出ししか読まない)に簡単に左右されてしまう。この傾向の進行は、世論の単純でワンパターンな論調が歴然と示している。
 小泉首相の紋切り型の説明、コピー的な言動、条理を無視した不遜な言動のいかがわしさに顰蹙を覚えない、気恥ずかしくならないのも、あの軽薄さと衆愚的傾向が分からないからなのではないかと思われたりする。
 読書とは、一人の人が最初から最後まで徹底して考え抜いた、調べぬいた汗の結晶であり、読書するとはそうした相手ととことん付き合うことだという、分かりきったことを今更、言うのも気が引ける。
 さて、日本のこの悪化の一途を辿る現実がある一方では、欧米(特にヨーロッパ)では、科学カフェが急速に普及しているという話を昨日、ラジオで聴いた。
 ネットでその情報を検索すると、「アサヒ・コム」で、関連の記事を見つけた:
 http://www.asahi.com/paper/editorial20040620.html
「科学技術白書――社会参観日のススメ」の項に、白書の主張として、科学者たちには、「「もっと社会との対話を」と呼びかける。人々が求めているものを理解し、不安や疑問を共有するのが、これからの科学者の社会的役割だからだ。
 素人が抱く疑問や不安を「無知ゆえ」と決めつける態度からは、健全な科学は生まれない。白書にいわれるまでもなく、科学者には社会とともに歩む姿勢をもってもらいたいと思う。」と、訴える一方、「いくつもの国で、さまざまな交流活動が試みられている。喫茶店やバー、書店を舞台に開かれる「科学カフェ」は、イギリスで始まり、イタリアや米国などへと広まっている。参加者が30人から40人と少なめなのが売り物だ。素人と科学者が、ひざをつき合わせて議論を交わす。進化論から遺伝子研究まで、とりあげる話題も多岐にわたっている。 」という情報が伝えられている。
 科学カフェは、まさにイギリスから始まっているのだと、昨日のラジオでも伝えていた。
 上掲のサイトでは、「専門分野にこもりがちな研究者の意識改革を促すために、月に一度くらいは社会参観日を設けるのもいい。その日は、例えば、お年寄りたちのグループと語り合ってみる。活動費も用意する。研究機関は、そんな一歩を踏み出してみたらどうだろう。」と締め括っている。
 ラジオでは、例えば、カフェでは、「初歩的な質問ですが」とか、「素人の疑問で恐縮ですが」といった類いの前置きは、禁句になっているとも話されていた。
 何が初歩的か分からないし、誰もが参加する場なのだから、みんなが気兼ねなく参加できることが大切で、そんな気兼ねの前置き・口上など時間の無駄だというわけだろうか。
 日本では、戦後の追いつき追い越せの受験戦争の激しくなった頃、受験の都合なのか、理系・文系と進学のコース分けがされるようになり、数学や物理が出来ないと、理系の学校に進めないだけじゃなく、中学や高校の段階で苦手意識が植え込まれてしまう。
 つまり、十代の半ば過ぎには、文系の人は理系の分野が、理系の人は文系の分野と縁が薄くなってしまう。
 そして、ついには昨今は、読解力・思考力の問われる分野全般について門戸が閉ざされつつある(それも、自らの手で)というわけである。
 理系・文系という受験の都合での学問、あるいは関心を抱く対象への狭隘化は、極めて不幸なことなのだと思う。
 科学コンプレックスも、案外と根が深い問題だと、思われるのである。



                    (04/12/09 記)
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# by at923ky | 2004-12-09 16:32 | コラムエッセイ

ファーストフードとしての人間の誕生(続)

「ファーストフードとしての人間の誕生」戴いたコメントへの返事


 Kさん、こんにちは。コメントをありがとうございます。 

 前回の発言をしてから小生は、やや短絡的で図式的過ぎる説明ではなかったかと反省していました。
 仕事での移動中、今の若者はなぜ切れるのか、切れやすいのかを少し考えていました。あるいは、本当に今の若者は切れやすいのか、もしかしたら昔の若者だって相当に切れやすかったのではないか。あるいは、凡そ、若者は元々切れやすいのではないのか、とも考えました。
 これは実際のところ、昔と今の若者を比べるのは極めて困難です。切れやすさを示すような指標があるわけでもないし、では今の中年や熟年世代の人の昔を胸に手を当てて思い返してもらっても、それは往々にしてセピア色の霞の彼方の若い頃を思い起こすのが精々で、本当にその人が若かった折の煮えたぎる青春(ああ、懐かしい言葉! 昔は大手を振ってこの言葉が使われていた)がありありと現前できるわけもありません。
 そんなことができたら文学者か映画の作り手か、とにかく一角のクリエーターになれます。戦後の一番厳しかった時代、終戦直後など、悲惨な事件が頻発したと歴史の書物にはあります。とてつもない謀略事件も起こっていました。その中に若者が関与した事件も多数あります。
 ただ、警察の力も混乱の中、及ばなかったために、またマスコミの報道も微に入り細に入っての報道とはいかなかったわけです。ましてワイドショーなんて今ほど盛んではありませんでしたし。
 つまりはみんな自分の生活を遣り繰りするのに懸命だったわけです。他人のことなど構う余裕などなかったわけですね。
 だからといって、別に今は他人の事を忖度できるほどに暇が出来たから、少ない事件が針小棒大式に大袈裟に採り上げられていると主張するつもりはありません。
 ただ、少年による重大犯罪は実際には近年減っているという統計もあったはずです。
 むしろ、それより、小生は今の少年の場合、情念が内に篭っているのではないのかという恐れ、懸念のほうが大きいのです。
 つまり今の子供はいい子であることを幼いうちから更に思春期を過ぎてまで宿命付けられているのです。なんといっても一人っ子か、せいぜい二人きりの子供の家庭がほとんどです。
 昔のように、子供がたくさんいるし、親は生活に必死で子供の面倒など見ておられないから、親の目の届かないところでの子供の自由な(しかし、その代わり危険すれすれの)生活空間がたっぷりあったということです。
(その典型は芸能人を見れば一目瞭然です。昔の芸能人はさんざん悪さもやったし、浮気や不倫もやったし、暴力団との交際や腐れ縁もどぎついくらいにあったわけです。でも、それらの非行がマスコミの槍玉にあがることはありませんでした。だからのびのび芸能活動を展開できたわけです。しかし、今はマスコミのカメラの眼はどこのレストランで誰と何を食べたか、何を喋ったか、ファッションはどんなふうかに至るまで、否、家の居間に至るまで逐一暴露され、マスコミのねたにされる時代です。これでは時代を象徴する大きな俳優も歌手も育つ余地が日本にはありません。だから才能のある人は海外に脱出するわけでしょう。ちょっと余談でした)
 ということは常に親や近所や学校などの監視の元にあるということです。一挙手一投足が他人の目を気にしてなされることを余儀なくされているのです。家庭では親に対して近所に対して挨拶をするいい子、学校では仮に悪ぶった子供でも人目のあるところではいい子であることを計算します。なんといっても偏差値と内申書の時代なのですから。
 その、いい子であるということは、つまりはある一定の仲間内でのいい子であるということです。
 つまり家庭なら家庭という狭い空間でのいい子です。親に対して反抗はしないこと、言われたことは守ること、反論はしないこと、それがいい子です。子供だったら時には親に反抗したり、逆らったりするのが本来自然の姿のはずなのに。
 また、学校や遊び仲間同士という空間でのいい子であることを絶対的に選択の余地なく余儀なくされます。
 その仲間内の中では、いじめがあれば素直に虐めに参画し、あるいは逆にいい事をしようという空気が生じれば素直にいい事をします。ボランティアが奨励されれば、率先してボランティアだってするわけです。
 一見すると立派な心がけのようですが、実はここに重大な陥穽があります。
 むしろ子供(に限りませんが)は天邪鬼のところがあってこそ人間らしいのではないでしょうか。つまり虐めを仲間内でやっていたら、俺だけはやらない、という人間がいてもいいわけです。
 逆にボランティアが唱道されたなら、そんなもん、やれっかよと、内心はやりたくてもやらなかったりする、そんな天邪鬼なへそ曲がりなところもあって初めて人間らしいと思えるのです。
 しかし、現代はマスコミの発達や様々な行動に関する神経過敏の傾向があって、その仲間内での空気には絶対にといっていいほどに逆らえない密閉されたような空間が随所に転がっているわけです。家庭、学校、塾、クラブ活動、男女関係。
 ということは、その人はある空間の中では、密閉された空間の中では常にいい子であるという習性を幼いうちから徹底して体に叩き込まれているということです。その限られたその都度の場では異議を唱えられない子供(人間)に育つといことです。
 が、しかし、社会というのは、しかも現代は特に異なった空間、異なった価値観、異なった風習の下で育った他者との出会いの場です。つまり異質な心性の相克の場であるということです。
 にもかかわらず、限定された空間の中で、つまりは無菌室の中で育った子供(人間)には異質な空間の場で育った人間との付き合い方、対処の仕方を全く知りません。常に同質であることを求められて育ったのに、無菌状態で育てられたのに、いきなり社会という雑菌のうようよする空間に放り出されたなら途方に暮れるのは当然の話なのです。
 つまり他者に街中で出会ったら、他者はただの風景か背景に止まるしかないか(それは電車の中で女の子が平気で化粧できるのも他者はただの背景でしかないからです)、でなくて、他者が己の空間に立ち入ったら対処の仕方を学んでいないわけですから、パニックに陥るのは当然なのです。
 きっとこれからの時代は、例えば学校では仲間同士仲良くやれよ、と教育するのではなく、異質な空間に育ったもの同士の出会いの機会が増えることを想定して、異質なものが出会った際に如何に付き合うべきかを学ぶ場にすべきではないかと思う次第です。




                                   (01/06/23)
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# by at923ky | 2004-12-07 22:52

ファーストフードとしての人間の誕生

「ファーストフードとしての人間の誕生」


 個性を大事にと喧伝されたことがある。今の若い人たちの(一部かもしれないが)中にも、特にファッションや音楽関係にうるさい人などには、自分のやりたいようにやる
んだ、それが個性の発揮だし、独自性の表現だし、競争社会の中で目立ち、傑出する道なんだと主張する人が多い。
 個性、学校でさえ、個性の尊重を言う。個人の意思や独自性の尊重、そしてその個性を伸ばすことが大切だ、なんて考えが主流になっているようだ。
 しかし、振り返ってみて子供の頃に自分のやりたいことが明確になっていた人がどれほどいたろうか。高校や大学を受験する頃にも、自分のやりたいことが分からないままに、とりあえず内申書と偏差値とで理科系か文科系に早々と振り分けられたままに、気が付いたら高校に、あるいは大学に籍を置いていたという人が多いのではなかろうか。
 大学などに入学する年齢になって、ようやく遅まきながら、はて自分は何をしたくて大学に来たのだろう、などと悩みだすのである。
 それでも、悩む学生はまだましなほうかもしれない。
 大学を卒業して就職する段になって初めて、自分はどんな会社が、どんな職が向いているんだろうと悩みだす学生も多いようだ。
 が、それどころか近年は、大学を卒業して社会人になってからも、やりたいことが分からずにフリーターという形態を選ぶ人もかなり増えている。下手すると、そのほうが今は多いのかもしれない。
 それが、即ち、悪いわけではない。いいわけでもないが。
 実は、きっと今の時代は、子供の頃に社会に目覚める機会が減っているのではないかと、密かに小生は思っている。
 極めて型通りに説明すると、昔は貧乏な家庭が多かった。ほとんどの家庭がそうだったと言ってもいいくらいだ。その貧乏な生活の中で、つまり端的にはカネに困るという自分の、あるいは親の暮らし振りを経験する中で、社会を否応なく意識せざるをえなかったのである。
 今も実は貧乏という表現はしないまでも、実質において劣悪な環境に置かれている家庭は多い。というより、実情は、そうした家庭のほうが圧倒的なのではないか。ますます多くなっているのではないか。
 にもかかわらず、家庭は、子供が大概、一人っ子か、せいぜい多くて二人なものだから、子供に惨めな思いをさせまいと親は必死なのである。また、衣料品くらいは結構、豊富だし安く買える状況にある。食べるものも工夫次第では、そこそこのものが食べられる。
 つまり、その日の暮らしには困らないわけである。
 それに何といっても今はローンがたっぷり用意されている。当面は借金でしのげるというわけである。
 そうして高い教育費に難儀しながら、子供には生活の苦労を見せず、つまりは社会というものをシビアーな形では見せず、従って子供が社会にぶつかって社会を意識する機会を奪い去ってしまい、結果として子供は家庭と学校(と塾)を往復する中で無菌状態で育ってしまうのである。
 だからといって小生は今の子供たちが悩みを抱えていないなどという暴論を吐くつもりはない。悩みを抱えない子供など、小生は信じない。
 ただ、その悩みは子供にとって、勿論、深刻だし切迫しているのだけれど、それが社会から隔離されているものだから、悩みが抽象的に浮き上がっているのである。
 悩みや痛みが、だから他人と共有することが不可能になりつつある。
 なぜなら、社会との触れ合いを通して初めて自分の悩みが相対化されたり、他人との意志の疎通を通して共有化されたりするのだとしたら、その契機が捨象されているからである。
 子供はファーストフードのように礼儀正しく、折り目正しく、順序立てて、つまりはマニュアル通りに育てられていく。親達自身が社会から孤立を余儀なくされているので、情報を雑誌やテレビや聞きかじりの無責任な噂や流行に頼って得るしかないわけで、そうした親が子供に施しえる<教育>にしても、何処かで聞いたような出来そこないのマニュアルに従った教育しか与えられない状況にあるのである。
 小奇麗な服を着て、清潔を保ち、今も昔に変わらぬ世間体に怯え、そうして綺麗に切り込まれた箱に押し込まれ並べられて、エスカレーター式に社会に放り出されるのである。
 つまりは昔は子供の頃から徐々に社会に慣らされたものが、今は、無菌状態、無垢の状態で社会に、しかも一人で立ち向かわなくてはならないのである。
 かくしてファーストフードとしての人間の誕生である。




                                 (01/06/19)
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# by at923ky | 2004-12-07 22:44

トイレで食事をする女性たち

「トイレで食事をする女性たち」


 土曜日だったか車中でラジオを聞いていたら、興味深い話を耳にすることが出来た。何と、最近、トイレで食事をする女性が増えているというのである。
 けれど、話を聞いているうちに、ちょっと大袈裟な表現をすれば暗澹たる気持ちになってきてしまった。
 会社では、特に若い女性社員の話なのであるが、グループ(仲間)を持つことが何よりも大切らしいのである。そのこと自体は、ふむふむで済まされる話なのだが、食事の際、若い女性らは一人で食事する羽目になることを何より恐れているというのを聞くと話が厄介に思えてくる。
 ここら辺は男性とは凡そ、発想法が違うのかもしれないが、食堂などで一人で昼食を取るのは仲間外れに自分がされているようで、その女性にとって恐怖そのものの状況らしいのである。
 何でも、入社した当初での仲間作りが大きなポイントになるらしい。その当初の数ヶ月のうちに、昼食などで一緒になる仲間を何が何でも作っておかないと、あとの会社での生活が孤立したものに陥りがちで、結果として仲間がいないとやりきれないようになってしまうらしいのだ。
 それで、仕事中はともかく、昼食などの際は、自分が仲間を見つけられなかったことを人に悟られないため、トイレに隠れて食事を済ませるらしいのである。
 掃除のおばちゃんらの証言でそうした事例のあることは裏付けられていたのだが、番組では、スタッフがトイレで食事をしたことのある女性を探し出し、インタヴューを試みたことも述べられていて、やはり嘘のようなホントの話であることは間違いないようだ。
 ところで、小生が思うに、そうした女性の中には、もしかしたら人と食事を共にすること自体が嫌な人もいるのではないかと推測する。 
 なぜこんな話をするかというと、過日、別のある番組で(これはテレビだったかと思う)、食事をする姿を他人に見られるのが嫌だという女性(多くは女性)が増えていると、あるコメンテーターが述べていたのを思い出したからだ。
 そのコメンテーターの話によると、凡そ食事をする姿というのは動物的で生々しく、とても他人には見せられない姿に感じられてならない潔癖症の人が増えている、ということなのである。
 今の、特に若い女性は父親と洗濯物が一緒になることを嫌う傾向にあることは、よく知られている。テレビのインタヴューでも堂々とそう答える女性がいることに、夜の父親達への同情も篭めて、若干の憤りを覚えたりする。
 不潔であることは、避けたほうがいいに決まっているけれど、潔癖症も極端に走るとその人の生活そのものを窮屈にさせ、しまいには精神的な意味で窒息状態に追いやってしまうのではなかろうか。
 いずれにしても考えさせられえる現実が、正に現実にあるわけである。
 ところで、これは余談なのだが、29日の朝の某ワイドショー番組で、最近の女子高生の清潔感に対する感覚について異変があると報道されていた。
 その番組によると、今時のルーズソックスを履き、顔グロまではいかないけれど結構顔の黒い女子高生で(勿論、アイシャドウーは人形を想わせるほどに真っ黒い)風呂にあまり入らないし、靴下もあまり洗わないだけでなく(洗うとしても、それは勿論、母親が洗うわけだが)、二日も三日も洗わない靴下を平気で履きつづける女子高生が増えているというのである。
 インタヴューされている女子高生の弁によると、面倒臭いというのだ。
 面倒臭いというのは、小生の若き日を思い返しても(否、今だって)分からなくもない。けれど、しかし、とりあえず毎日、靴下くらいは交換したものだった。
 尚、女子高生が交換しないのは靴下だけではない、パンツもそうである。スカートの下に隠れているはずのパンツのことだ(パンティと呼ぶのだろうか)。
 今時の女子高生は、清潔感に関しても昔の男子程度になっているらしい。一方では極端なほどの潔癖志向、一方ではだらしないまでの不潔なことへの鈍感さ。
 しかし話はここで止まらない。実は、これはある裏ビデオ好きの方に聞いたのだが、今の若い子はトイレ(大のほう)をした後に、紙で拭かないでトイレから出てくる子が多いというのだ。ビデオだと(隠し撮りのトイレもの)、トイレをすませても、紙で拭かないから、当然、パンツ(パンティ)に何がべっとりのわけである。
 つまりはそうした教育が家庭では為されていないのだ。
 考えてみれば、トイレ(大)の後に念入りに紙で拭うというのも、小さい頃からの大抵は母親による教育の成果であるわけで、天然自然に尻を紙などで拭く習慣を持つようになるわけでは決してないわけである。
 トイレで食事をする話が、トイレの後の下の始末(不始末?)の話で終わってしまった。お後が宜しくないけれど、これでさよならします。では。




                               (01/06/30)
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# by at923ky | 2004-12-07 22:36 | 芸能・風俗

天の川海山群や七夕海山群など

「天の川海山群や七夕海山群など」


"海上保安庁では、昭和58年度から日本周辺海域の詳細な海底地形の調査を行っており、約300個に及ぶ海山、海底谷等を発見してきました。この度、我が国で開催されたGEBCO(ジェブコ:大洋水深総図)委員会でこれらの海山や海底谷の名称が国際的に承認されました"

 昨夜、車中でラジオから海山(かいざん)という小生には聞きなれない言葉が流れてきた。その海山の名称には、例えばかぐや姫海山、織姫海山、牽牛海山などがあるという。皆さんは御存知だったろうか。
 小生には初耳である。
 自宅に帰って早速、事典に当ってみると、海山や海丘(かいきゅう)という言葉についての説明があるが、具体的な名称となると全く挙げられていない。
 ちなみに海山とはNIPPONICAによると「海底の盛り上がりで、麓から頂上までの高さが1000メートル以上あって、比較的孤立しており、頂上付近の広がりが狭い海底地形の一つ」とある。つまり1000メートルに満たないものは海丘ということになる。
 が、この説明を読む中で、そういえば何かの図鑑で海の底の数知れない山や丘を描いた挿絵を見たことがあったのを思い出した。海山という言葉も聞いたことも見たこともったのである。
 ただ、昨夜(というより既に未明だったが)のラジオで聞いた、かぐや姫とか、織姫とか、牽牛という名称の海山があるというのは全くの初耳だったというわけである。
 事典では、先述したように具体的な名称が一切挙げられていない。小生はネットで検索してみることにした。すると、確かに、これらの優雅な、ロマン溢れる名前を付けられた海山があるのだった。
 タイトルに示したような「天の川海山群や七夕海山群」に止まらず、「長寿海山群」として還暦海山、古希海山、喜寿海山、傘寿海山、米寿海山、白寿海山があり、「秋の七草海山群」「秋の七草海山群」などもあるという。
 冒頭に引用したように、これらの名称がこの度、国際的に承認されたこと、そして七夕にちなむということもあり、昨日のラジオで織姫海山などが紹介されたのだと思われる。降って湧いたような話題の報道のされた理由も、少しは事情も分かった気がした。

*海山群についてもっと詳しく知りたい方は、以下のアドレスを示しますので、興味のある方は覗いていただければと思います。
 http://www.kaiho.mlit.go.jp/info/kouhou/k20010507.htm

 まあ、七夕の日は過ぎてしまったが、ちょっと小耳にはさんだので遅ればせながら、お話した次第である。

 


                                (01/07/10)
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# by at923ky | 2004-12-07 22:32

独我論と心身問題と

「独我論と心身問題と」


 哲学事典(平凡社)によると「独我論」とは「実在するものは自分の自我だけであって、他我およびいっさいのものは、自分の自我の意識内容として存在するにすぎぬという立場」とある。バークリーなどがこの代表者とされるが、フィヒテやさらには現代哲学の地平ではヴィトゲンシュタインが今日的課題に関わって中心的人物と言えるかもしれない。
 小生は昔、デカルトをかじった頃、デカルトの「我思う、故に我在り」という観点からは決して肉体としての人間、あるいは具体的相貌としての自然とは出会えないと直感した。
 デカルトは思惟実体(精神)において絶対確実な原理を得たかのごとく確信したかもしれないが、しかし、そこからは延長実体(物質や肉体)には決して通底することはないことに深刻な煩悶を抱いた。
 挙句、脳の奥の松果体という部位に救いを、つまり精神と物質との幸福な出会いの糸口を見出したそうとした。が、高校生の小生にも、それは苦し紛れの誤魔化しだと察せられるお粗末な議論に過ぎなかった。
 結局のところ、デカルトの明晰・判明な思惟というのは、つまり方法的懐疑というのは、あくまで方法的な懐疑であって、それは一種の方法的虚構の論理と見なすのが妥当なのだろう。
 そうした仮構された方法的論理空間の内部だからこそ、明晰・判明な思考が妥当しえる。つまり、数学や数学から類推された論理が妥当しえる(かのような)情念の世界をデカルトは虚構したのである。
 しかし、肉体は、そして自然は必ず人間の尊大な営みを裏切る。
 遠い昔、ソクラテス以前の人、哲学の始祖とも言われるタレスは、天文学を窮めようと、いつものように瞑想に耽りながら歩いていて、思わず何処かの穴に落っこちてしまった。
 それを見たある無学な女は「偉い人かもしれないけれど、目先のことには疎いんですね」と笑った。
 所詮、哲学者というものは現実離れしたものなのかもしれない。だから卑賤な者たちに高尚な哲学など分かるはずもない、と開き直ることも出来ないこともない。
 けれど、その穴というのは、実は、それこそが現実なのかもしれないと考えられないだろうか。
 又、別の例を出そう。
 例えば、1プラス1は幾つか。答えは教科書通りで行くと、2である。
 それは正しいのかもしれない。
 というより1プラス1イコール2というのは定義なのであって、答えというより約束に近いのかもしれない。 
 しかし、例えば1プラス1イコールとノートに記入し、さて答えを導き出そうとして、その最中に地震が起きたり、あるいは天上から雨水が垂れてきてノートが破れたり、ずぶ濡れになったりしたとしたら、答えを出すところの騒ぎではないはずだ。
 その場合、地震や雨水の漏れは1プラス1とは別次元のこととして無視すべきなのか。関係ないことだから考慮の外に置くのが常識なのか。
 しかし、現実とは、実はそうした思いも寄らないことの連続だったりするのではないのか。
 とすると1プラス1とイコールで結ばれるはずの2との間には深い亀裂が覗けているのではないのか。論理の上での1プラス1イコール2というのは、そうした現実の生活空間の偶然性、カオス性を除外した、虚構空間上の不可視の論理世界なのではないのか。
 けれど、しかし話はここでは終わらない。数学や物理やによって得られた知見が折に触れ技術や応用の形で我々の生活空間に適用されてくる。実際、その諸法則によって飛行機だって飛ぶし、車も動く。
 こうした実績というか現実があるからデカルトは数学の力を確信したのだろう。論理の世界から導き出された法則や規則が何故に現実の世界に妥当するのか、そこにこそ、デカルトは不可思議を覚えたのだということを忘れてはいけない。
 さて、近年のコンピューターの発達は目覚しいものがある。その恩恵に我々は浴している。その発達がロボットの製作という象徴的な形で我々の前に具体化されようとしている。
 コンピューターは論理の世界の所産である。その論理的言語をパソコンなどの形で我々の前に具現化されているわけだ。
 その一定の成功は論理という言語を身体という肉体の創造の形で、新たな段階に踏み出そうとしている。
 あるいはコンピューターの論理の新たな可能性を人間の脳に見出していると言うべきかもしれない。
 つまり人間の脳の神経網の巧みさに改めて驚かされ、素子の微細化という武器を手に、再度(昔、AI=人工知能の構築を図って、見事に壁に突き当たったことがある)人工の頭脳を作ろうとしているのである。
 そして人間の脳の特殊な構造を研究するとは、つまり人間の身体との関わりの中で脳を考えることに他ならないと気づいたのである。
 脳は身体との相関関係なしには発達しなかったものなのだ。
 それゆえ、人間型ロボットを実現させるという明瞭な目標を立てる形でプロジェクトを組み、論理(記号)と物体(肉体)との相関を研究しようと試みられているわけである。
 肉体とは人間にとって一番、身近な自然なのである。
 小生は、きっとロボットの構築だけでは人間の脳の研究は偏ったものになるし、早晩、行き詰まるに違いないと思っている。
 何故なら、人間の身体は単なる肉体ではないのだ。人間は(多くの動物は)男と女で(雄と雌で)成っている。
 つまり、そこにはセックスが介在しているのだ。
 セックスを好もうが嫌悪しようが、男女(雌雄)の交わりなしに人間の肉体という自然はドラマも輝きも悲劇も喜劇も生じない。
 何故に病気はあるのか、何故、老衰という現象があるのか、何故に恋や愛欲はあるのか。そうした一切を抜きに、ロボット(ロボットという綺麗な透明な身体)の構築を図っても、小生には半端なものにしかなりえないと思うのである。
 独我論はたとえ成立すると当人が思っていても、現実がその独我論者の微睡(まどろみ)を破る。岩の上に座って悟りを開こうと思っても、その岩が崩れたら、あるいはその修行者が下痢で悩まされたら、悟りどころではないのである。
 仮に結論を出しておくとするなら、独我論は成立する、従って客観的世界は存在しない、となるだろう。論理からは決して客観的世界は出てこない。独我論の螺旋世界からは脱出不可能なのである。従って客観的世界は見出せない。
 但し、その独我論を夢想する肉体は空しく滅びるだろうという、ただそれだけの現実があるだけである。



(01/05/06)
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# by at923ky | 2004-12-07 22:28