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景観のこと

 昨日、車中でラジオ放送を聞いていたら、景観についての法律がどうしたという話を断片的に耳にすることができた。
 国が初めて景観法を制定し、年内にも実施されるとか:
景観法成立、計画にNPOが提案権

 上掲のサイトによると、「6月11日、景観緑三法が参議院を通過し、成立した。景観法は、良好な景観を「国民共通の資産」として位置づけた初の基本法。NPOは、同法で都道府県などが策定する景観計画への提案主体となれるほか、景観重要建造物や樹木を管理したり、利用されない棚田などを耕作する景観整備機構になれることが盛り込まれた」とか。

 景観条例は、小生も耳にしたことがある。この「景観法は、今まで条例などで自治体が独自に規制を設けてきた景観条例に、基本理念や規制などの法的根拠を与えるもので、初の包括的な基本法」だという。

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by at923ky | 2005-03-29 19:35 | コラムエッセイ

物語のこと

 文学など専門的な立場で物語がどのように定義されているのか、小生は知らない。
 ただ、なんとなく物語という言葉を使っている。英語ではストーリーとなる。
 話に起承転結があるものの総称? でも、基本的には虚構であるという前提がある。
 すると、創作された起承転結のある虚構の作り話という性格付けでいいのだろうか。
 物語という以上は、語り手がいると同時に、聞き手もいるか、少なくとも語り手は聞き手を期待している。話を作った以上は、誰かに聞いてもらいたい、というのが正直な気持ちだろう。
 が、物語が生まれる土壌として、ある意味で、聞き手、乃至はある一定の範囲の社会の構成員の何かしらの期待があって、その期待を叶える形で誰か才能のある人、あるいは湧くように物語が口を突いて出る人が語るのだとも言えなくもない。
 語り手と聞き手は、相関関係にあるからという以上に、両者は作話の上での共犯関係にある、ということかもしれない。

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by at923ky | 2005-03-26 22:51 | 随想

チャンスは誰にでもあるのだろうけど

 アメリカは自由と平等の国だという。成功に至るチャンスは誰にでもある。誰にも平等にチャンスが与えられている。
 このことに嘘偽りはないものと思う(違うという根拠もないように、全くその通りだという論拠もない、そう言われているから素直に、そうなのかもしれないと、頷くしかないのだ)。
 誰でもマイケル・ジョーダンになれるかもしれない。誰でもビル・ゲイツになれるかもしれない。アメリカの大統領になることだって、頑張って勉強し、人脈を作り、論議の腕を磨けば、なれないこともないのかもしれない。桜の木を切った誰かだって大統領になったという逸話があるし。
 誰だって宝くじを買えば、一等賞を当てて、億万長者になれるかもしれない。ロトもあるし、馬券で大当たりをするかもしれない。
 頑張れば運動会で一等賞になれるかもしれないし、勉強で刻苦精励したら学校で一番になるかもしれない。早いうちから修行を積んだり練習を欠かさず行えば、立派なピアニストになれるかもしれないし、プロのサッカー選手になることも、プロ野球の選手になり年収が億を超えるかもしれない。
 勉強ができない、体力もない、コネもないのないない尽くしであっても、絵を書いたらとんでもない才能を発揮するかもしれないし、異性関係にはだらしないけど役者としては一流になれるかもしれない。
 もう、チャンスはそこら中に転がっている。そう、道端におカネが落ちているかもしれないのだ。あるいは素敵な人に出会う事だって可能性がないとはいえない。
 戦争に参加したら、参加して生き延びたら、国家において一族が日の当たる場所に出られるようになるかもしれない。あやふやだった市民権を確保できるかもしれない。貧乏のどん底から這いあがれるかもしれない。学費を得て、好きな勉強ができるかもしれない。家族に楽な生活を送ってもらえるかもしれない。

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by at923ky | 2005-03-26 22:44 | コラムエッセイ

今朝、聞いた水谷修氏の話

 水谷修氏というのは、「1956年横浜生まれ。上智大学文学部哲学科卒業、現在、横浜市の夜間高校の教師。
 教師生活のほとんどの時期、生活指導を担当し、高校生の非行・薬物問題にかかわる。「夜回り」と呼ぶ深夜の繁華街パトロールを通して、若者とふれあい、彼らの非行防止と更生に取り組んでいる。現場での経験をもとに、少年非行や薬物汚染の実態と背景をひろく社会に訴え続けている。」という方。
 詳しくは下記サイトにて:
夜回り先生
水谷修の春不遠
 このサイトの中で、水谷修氏の講演が読める。
 不況の中、社会の歪みは弱い部分、弱い人間にしわ寄せが来る。
 覚醒剤(ドラッグ)に関わるシビアーな話だったよ。上記の紹介にもあるように、水谷氏は、「夜回り」して街頭(繁華街)で若者達に直接、声をかけている。凄いね。自分には到底、できない。


                          (03/04/20)
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by at923ky | 2005-03-26 22:35 | 人物紹介

月影に寄せて

 「広辞苑」で「月影」を調べると、以下のようである:

(1)月のひかり。「月影さやかな夜」
(2)月の形。月の姿。
(3)月の光に映し出された物の姿。
(4)薄墨で竹などの模様をすり出した紙。

 手元にある事典ではデータなしとなってしまった。言葉として一般的過ぎるのだろうか。
 突拍子もなく、月影などという言葉を持ち出したのは、それなりに理由がある。
 あるサイトの掲示板に「幸せってどういうこと」という問いがされていた。その書き込みは、小生のサイトにも訪れることがある人なので、どうして小生には問いかけしないのかと思った。でも、そのサイトは論旨が明快で、なるほどそちらに問い掛けるのが自然なのだなと、納得してしまった。
 ちょっと悲しい納得ではある。
 同時に、問われなくてよかったと、妙に安心というか、もし正面切って問われたら、答えようもなかったではないかと、冷や汗が流れそうにもなった。
 そう、小生にとってどんな質問が一番、難しいかというと、「幸せ」とは何かという問いをおいて他には考えられないのである。
 なぜ、「幸せ」とは何かを問われると苦しいかというと、それを考えてこなかったし、考えない以前に求めてこなかったから、と答えるしかない。
 別に不幸になろうとか、幸せに背を向けようとか、そんな大それた発想があるわけではない。
 そうではなく、ただただ、そんなことは考えない、意識しないようにしてきただけのことなのである。
 では、どうして殊更に意識しない、まして幸せを積極的に追い求めなかったのか。
 それはつまるところ、遠い昔に、そんなものが自分にあるとか、やってくるとは到底思えなくなっていたからだ。
 その原因については、ほかでも書いたので、ここでは触れない。ただ、諦めが早いというか、気力とか意志が薄弱で、時の流れに任せるだけで、深くは考えないようにしていたことは否めない。
 何を求めるという発想法は、とにかく皆無だった。せいぜい、目先のトラブルを避けることだけに懸命だった。トラブルが生じないなら、一切、勉強はしない。落第生の烙印が押されたって、それが自分に影響しない限りは、どうでもいいのだった。
 逆に勉強したほうが、風に乗り、気楽であるのならそこそこに勉強し、とにかく目立たないことを先決の関心事としてきたのである。
 ただ、遣り過すこと。日々を流すこと。それで一生が送れるなら、何の問題もないわけである。少なくともその筈だった。
 が、そうはいっても、波風が起きるのが人生である。事なかれ主義で通していても、風は透き間を見出し、あるいはズボンの裾からでも風が舞い込み、どこにどう潜んでみても、世間の風は吹き込んでくる。
 それどころか、恋もするし、嫉妬もする。自分がのほほんと暮らしている一方で、自分の周りの人間が苦しんでいるなら、目を背けてばかりも居られない。それほど意志が強い人間ではないから、ついつい身の程知らずにも声を掛けてみたり、そうでなくとも心を砕いてしまう。感じてしまう。共感の念が湧き出てくる。

 さて、小生は自分が太陽ではないことは、さすがに自覚している。誰もがその存在が気になるような太陽の人ではないことは重々承知してる。
 太陽の人は、当人の頭の中ではあれこれ悩んでいるのだろうけれど、でも、その人の傍に居て外見に接している限りは、何かしら暖かいものを感じ取ってしまう。能天気というわけではないのだけど、生き方が前向きに感じられる。
 実際、そのように心掛けているのかもしれないし、そうではなく、ただ、愉しいこと、生き甲斐に成っていることを見出してエンジョイしているだけなのかもしれない。
 事情はどうであれ、周りにいる人は暖かくなる。何となく勇気付けられる。よし、あの人があれだけやっているのだから、自分だってと頑張ってみようと奮い立つ。
 そんな太陽の人。

 一方、自分を振り返ると、太陽など論外で、せいぜいが月である。太陽の光を浴びて、やっと輝いている月に見立てるのが、やっとなのである。それだって、贅沢すぎる表現だと思うのだけれど。
 女性は元始太陽であったという言葉がある。敷衍すると、人間は誰しもが太陽なのかもしれないと思う。地上の星々でも書いたように、地上に生きている全ての人が、それぞれに星であり、太陽なのだ。生きとし生ける全ての存在が、太陽であり星なのである。
 あまりに当たり前に地上のこの世界に星々が煌いているから、そうした事実に気が付かないのだ。自分だって実は太陽であり星となっていることがわからないのだ。
 その中で、自分という存在を少しだけ振り返ってみると、星でもなく、まして太陽でもない。
 だけれど、それなりに生きてきて、多少なりとも縁を持った人には幸せになってもらいたいと切に思う気持ちがある。自分のことを差し置いて、そんなことを思うのは僭越だと思うのだけれど、生意気かもしれないけれど、そう思ってしまう。
 が、思うだけの人間である。思ったからといって何をするわけでもない。何ができるわけもない。
 でも、自分のことはともかく、周りの顔を知る人たちには、幸せにと願わずには居られないのだ。変なのだろうか。可笑しいのかもしれない。
 そんな自分に何ができるのだろうか。何ができるわけもないと、すぐ手前で書いていて、舌の根も乾かないうちに、ないができるのだろうかと問う、その愚かしさ。
 小生は、書くことに全ての情熱を傾けている。
 書いている内容や、深さ広さに難があっても、とにかく世界の一端をでもいいから触れたいと思っている。表現したいと思っている。書くとは恥を掻くことというのが、自戒の言葉というか、モットーに近い表現なのだが、それでも、飽くことなく、ありとあらゆる由無し事を書き綴るというのは、別に知識を広めるためでも、薀蓄を傾けるためでもなく、書きながら何事か新しいことを調べ、あるいは何か興味を惹く何かに触れたならその何かを紙の上に少しでも定着させたいからだ。
 書くとは、ある種の懇願の営為なのだと思う。
 何への憧憬か。
 それは、生きること自体の不可思議への詠嘆であり、この世に何があるのだろうとしても、とにかく何かしらがあるということ自体の不可思議への感動なのだ。この世は無なのかもしれない。胸の焦慮も切望も痛みも慟哭も、その一切合切がただの戯言、寄せては返す波に掻き消される夢の形に過ぎないのかもしれない。
 でも、たった今、ここにおいて感じる魂があるということ、それは、つまりはこの地上世界に無数に感じ愛し悩み喜び怒り絶望し感激する無数の魂のあることのこの上ない証拠なのであって(だって、自分だけが特別なはずがないのだ。誰もが一個の掛け替えのない存在なのだとしても)、その感じる世界の存在は否定できないような気がするのである。

 さて、話は戻る。小生は太陽でもなければ、地上の星々の一粒でさえないのかもしれない。
 でも、どんな塵や埃であっても、陽光を浴びることはできる。その浴びた光の賜物を跳ね返すことくらいはできる。己の中に光を取り込むことはできないのだとしても。
 月の形は変幻する。満ちたり欠けたり、忙しい。時には雲間に隠れて姿が見えないこともあるだろう。でも、それでも、月は命のある限り、日の光を浴び、そして反射し、地上の闇の時を照らそうとしている。
 月の影は、闇が深ければ深いほど、輪郭が鮮やかである。懸命に物の、人の、生き物の、建物の形をなぞろうとしている。地上世界の命を愛でている。柔らかな光となって世界を満遍なく満ち溢れようとする。月がなかったら、陽光が闇夜にあって、ただ突き抜けていくはずが、その乾いた一身に光を受け止め跳ね返し、真の闇を許すまじと浮かんでいる。忘れ去られることのほうが実際には遥かに多いのに。
 月の光は、優しい。陽光のようにこの世の全ての形を炙り出し、曝け出し、分け隔てするようなことはしない。ある柔らかな曖昧さの中に全てを漂わせ浮かばせる。形を、せいぜい輪郭だけでそれと知らせ、大切なのは、恋い焦がれる魂と憧れてやまない心なのだと教えてくれる。
 せめて、月の影ほどに、この世に寄り添いたいと思う。
 太陽の光も素晴らしい。けれど、陽光を浴びた月が惜しげもなくこの世に光を満たしていることを思うことも素晴らしい。
 窓の外の定かならぬ月影を見ながら、そんなことを思ったのだった。
 
 最後まで読んでくれた方のために、西行法師の歌を一つ:


月のみや うはの空なるかたみにて 

  思ひもいでば 心かよはん


                                (03/11/25)
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by at923ky | 2005-03-19 13:55 | 随想

タマちゃん騒動とイラク問題の間に

 一方においては、アメリカなどによるイラク攻撃が始まる緊迫した状況だというのに、一方においては、タマちゃん騒動である。
 平和ボケした日本を象徴すると言えば、それまでのことだが。
 しかし、当事者(その範囲をどこまで広げればいいのか、難しいところだ。タマちゃんに関心がある人、全てが当事者という理解も出来ないわけじゃないし)にしてみれば、ホットな問題なのだろう。
 一昔前、文学と政治という切り口があった。常に政治を意識して文学活動をする、文学作品のテーマとしても、何かの政治運動とか、理不尽な政治の犠牲になる人間像とかが描かれたりした。どんな日常の細部に渡ることを描く際にも、その背景に政治を意識していないと、文学として未熟だという受け止め方があったりもした。
 しかし、70年代の終わりからだったろうか、流行曲で云えば「神田川」とかが流行り、同棲が学生などの間で広まったりして、政治は政治だけど、自分の私的な生活も大事という発想が、つまりは古い表現を使えばノンポリ的な学生像が一般的になってきた。
 国の命運を左右する政治論議や行動も大事、だけど、自分のこと、恋人のこと、あるいは自分の顔に出来たにきびのことが下手するともっと大事じゃないか、という発想。そうした世界観を表現したシンガーソングライターに井上揚水とかがいる。
 小生も彼の歌の世界にドップリ浸った世代の一人だ。ビートルズを愛しつつ。
 野口五郎の私鉄沿線も結構、ヒットしたっけ。
 そうした内向き思考というのは、一頃の過激な政治活動への反動もあるに違いない(浅間山荘事件や悲惨極まる総括など)。
 また、政治の側の策略もあると言われる。
 大学のキャンパス内に学生寮などを設けないとか、大学の構内には自由に出入りさせないとか、多くの大学のキャンパス自体が、郊外の、よくいえば(その気になれるなら)勉学に励めるはずの広い、その代わり市街地の遊び場からは隔離されたエリアへ移転していったり。
 こうして大学のキャンパスを分断化することで、学生を他の大学との交流を断ち切り、ついには、学生の横のつながりをも自然消滅的に解消されていった、とも言われる。まして、大学生が一般社会との横断的な交流を持つことは、大学が認める<健全>なる性質のものでないと、かなり難しくなった。
 受験競争の激化、偏差値重視、さらには内申書重視が、素行の上での自制を促し、どこまでも学生の関心が内向き志向を強めることになった、とも云われる。 
 いずれにしても、政治や社会の問題に関心を持つ学生がいても、それは、そうした変わった趣味を持つ人がいるものだ、ということであって、その価値評価は、デートやスポーツ、遊びと同程度しか持てない。別に政治的志向を上位にすべき理由などないのだが、同程度で構わないのだろうけれど、ただ、同程度にあることへの疑問を一切抱かないとしたら、それはそれで何か違和感を覚えたりする。何か、違うんじゃないの、と。
 さて、話を戻そう。今、アメリカなどがイラクを攻撃しようとしている。それに日本も遮二無二追随しようとしている。しかも、不況が深刻の度合いを増すばかりである。農業問題、都市と地方との格差の問題、etc.と、今、国の内外を問わず、問題が山積しているのだ。
 そんな時に、何故、タマちゃん騒動なのか。
 でも、小生が評論家的立場ではなく述べるとするなら、イラク問題も大切だが、タマちゃん騒動も大事に思えるのだ。同等だと断言などしないが、タマちゃん騒動の渦中で躍起になり、歯痒い思いの果てに悔し涙まで流す人がいるなら、その思いに共感するのである。
 タマちゃんは、別に(恐らくだが)人間の手で強制的に多摩川や鶴見川や今の帷子川に連れて来られたわけじゃない。まして、今の生活エリアに金網を仕切って何処へのいけないように強いられているわけではない。
 だから、タマちゃんを元の北の海に返すのだ、一匹だけ本来の住み場所でない地域で暮らすのは可哀想じゃないかと(タマちゃんを想う会が)いうのは、違うんじゃないかと思ったりする。
 そうだよね。タマちゃんは河口付近までしばしば遠征しているみたいだし。帷子川の現下の場所へは休息に来ているようにも思えるよね。
 でも、もしかしたらタマちゃんは、河口から外海に出たかったんだけど、どっちが外海なのか分からなかったのかもしれない。仲間と出会えるかも、という期待で河口まで出向くんだけど、誰にも出合えなくて、ガッカリして上流に戻るのかもしれない。
 その本当の気持ちなど、人間には分からない。タマちゃんが、すくすく成長し、結構、太っている外見を思うと、今の生活にドップリ浸って満足し切っているのかもしれない。
 逆に太っているのは、ストレスによる激太り現象の結果なのかもしれない、とも思ったり。
 餌だけは、タマちゃんを想う会が与えようとするのは余計なお世話だと思うけれども。これも正解がみえるわけじゃないが。
 一体、タマちゃんにとっても自然とはどういうことなのだろう。タマちゃんが<自然>にやってきて、勝手に生活しているんだから、そっとしておいてやればいいというタマちゃんを見守る会の主張も分からないではないのだが、その<自然>というのが分からないのだ。
 そもそも、地球の温暖化で、日本の関東などの近海は亜熱帯化していると云われる。北の海だって環境が激変しつつあると言われる。南極や北極の氷が溶け出していると言われて久しい。溶け出した氷や、変化した潮流に乗って、関東くんだりまでタマちゃんがやってきたのだとすれば、決して<自然>にタマちゃんがやってきたとは云えないことになる。
 けれど、だからといって、タマちゃんを自然な状態に戻そうと云ったって、一体、どんな状態が自然なのか、誰に分かるのか。北の海の環境が変化しているのだとしたら、自然の状態に復すためには、北の海を十年前か二十年まえの状態に戻すことが先決問題だ、ということになりかねない。
 ということは、問題は環境問題にある、環境の激変がなければ、そもそもタマちゃんは南の海まで流れてこなかった(かもしれない)し、タマちゃん騒動など最初から生じなかったはず、ということになる(かもしれない)のだ。
 小生の勝手な見解なのだが、恐らくは(きっと間違いないと自分では思うけれど)、今、地球の環境問題が一番、喫緊の問題なのではないかと思う。環境の問題は人間だけに関わることではなく、地球上に生息するほぼ全ての生命体に関わる問題なのだと思う。
 環境の激変は、人間にとってもだが、数千万種に及ぶという生命種全てに場合によっては致命的な影響を与えかねないのだ。
 今、人間が一致協力して取り組まなければならない問題は環境問題なのではないかと思う。環境の問題は経済の問題ともリンクしている。資源の奪取と製品の先進国への輸出、これは言い換えれば資源の一部特定先進国への一方通行の移動を意味する。その際、今、水サミットが行われているが、水の収奪と水の先進国での専有の問題でもある。
 そう、今は、地球上で戦争などしている場合ではないのだ。そんな悠長な段階を超してしまっているのではないか。戦争が行われ、武器が使われれば、潜在的なエネルギーの爆発的拡散となるし、数百万人もの難民の発生をも呼ぶ。そうした難民は土地を奪われて、先進国に生活を依存することになる。
 そのためには、先進国は一層、経済的発展を追及せざるを得ないし、となると、後進の地域からの資源(人的な資源も含めて)の奪取がますます必要となる。
 つまりは、悪循環が促進されるだけなのである。
 地球は狭くなったのだ。このことの自覚が必要なのではないか。地球上の何処の地域の変化も即座に他の地域へと影響が波及する。パスカルの原理じゃないが、何処かで生じた圧力の変化は、他の全ての地域へ瞬時に伝わるのだ。
 タマちゃん騒動から、身近な生活と世界の現況との相関関係を思う。やっぱり、今は戦争などしている場合じゃない。せいぜい口争いに留めておくべきだと、タマちゃん騒動を見ながら思うのだ。


                              (03/03/17)
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by at923ky | 2005-03-19 05:07 | コラムエッセイ

ジャパンのこと

 英語で「japan」を翻訳すると、日本もあるのかもしれないが、むしろ、「漆器」と訳されるようである。
 というか、遠い昔、授業でか、「japan」にそんな意味のあることを仄聞したような気がするが、あまり深く考えることもなく記憶の沼の底に沈んでいってしまった。
 その後も、陶磁器や土器などの話になると、漆器にも話が及び、場合によっては、「japan」は「漆器」を意味(あるいは、その逆)のだという知識に触れていたはずである。
 さて、昨夜、仕事中、ラジオで改めて、漆器の話を聞くことができたので、せっかくのことでもあり、勉強を兼ねて、自分のためのメモとして、ここに大雑把なことだけでも綴っておきたい。
「japan」は「漆器」として、「china」は「磁器」を意味することも、知る人は多いだろう。
「磁器」は、豊臣秀吉による文禄・慶長の役の際、朝鮮出兵をした大名の多くは、優秀な朝鮮の陶工を連れ帰った。その結果、日本に磁器の製法の技術が導入され定着していったわけである。その意味で、江戸時代以前に関しては、土器はともかく磁器は、中国を意味するしかなかったわけであろう。
 このことも、常識に属することなのだろうし、ここではあまり触れない:
有田焼について
磁  器

 日本という国名は、『日本書紀』の編纂が養老5年(720年)ということでも分かるように、その頃には自称していたものと思われる(実際には七世紀だろうが)。
 問題は、その「読み」がいかなるものだったか、である。
 我が国の人たちが、読んでいた読方もあるのだろうが(ここでは略す)、海外での呼び方(読み方)となると、別儀で、やはり、中国人がどう日本を表記し、呼称するかに依存していると思うしかない。
 古代などの中国人の日本を呼ぶ言葉の発音の正確なところは分からないが(知らないが)、広くヨーロッパに興味を惹いた、ということになると、マルコ・ポーロの紹介の仕方を参考にするのがいいのだろう。
 恐らくは、マルコ・ポーロは中国に来て、日本の文化などの存在や性格を知り、その黄金伝説をも伝えたのだろう。『東方見聞録』では、金閣寺などを見て(聞いて)、日本を「黄金の国」と伝えたようである。
 その際、日本を「ジパング」と呼称したようだが、その「ジパング」に「黄金の国」という意味合いがあるのか、それとも、日本=ジパング=黄金の国ということで、「ジパング」に「黄金の国」という意味合いが含意されていったのかは、小生は知らない。
《 東方見聞録に書かれていること》〈日本はどう紹介されているのか〉

 さて、大航海時代、マルコ・ポーロらにより、日本という国の存在がヨーロッパに気になる存在として印象付けられたのだが、その際、黄金伝説が間に受けられたのなら、「ジパング」=「黄金の国」という意味合いとなったはずである。
 が、実際には、そうではない。

 先に進む前に、「ウィークリーふりーえむえる」の、「諸説・ジャパンの由来」というサイトが面白い(中身の信憑性などは読者が判断して欲しい)。

 いずれにしても、「中国語の「日本」(「ジーベン」か「リーベン」と聞こえます)が由来と聞いています。 これがマルコポーロによって「ジパング」と伝えられ、英語の「ジャパン」、仏語の「ジャポン」になった」と理解しておくのが穏当なのだろう。
「《 東方見聞録に書かれていること》〈日本はどう紹介されているのか〉」にもあるように、日本は、黄金の国であり、真珠が多量に産出される国であり、胡椒以外にも貴重な香木の産する国であるとして、紹介されている。
 さて、日本(ジャパン)が、何故、「漆器」を意味するようになったのか。
 問題は、どうやら、黄金の国としてジャパンを紹介した際、マルコ・ポーロが、どういう場面で使用されている黄金を見たのか(知ったのか)に懸かっている。
 まさに「金(きん)」の意味での黄金と考えるのが筋なのかもしれないが、異説を唱える人もいる。海外の、それぞれの国の産物の特徴を見極める目に長けたマルコ・ポーロは、単なる「金(きん)」に目が眩んだと思うのは、単純すぎる。
 金(きん)だったら、日本にも豊富かもしれないが、中南米の黄金の量には比べられるはずもない。そちらでは、金箔ではなく、まさに金の塊が巨大建造物にも惜しみなく使われていたのだ。
 そんなことは、既にヨーロッパの人たちも熟知していたわけである。
 では、何故に、ジパング=ジャパン=黄金の国なのか。実は、黄金とは、今、チラッと目に触れた、金箔なのではないかと思われるのである。
 もっと言うと、蒔絵などに金箔が使われる技術であり、さらに、蒔絵の美の根幹である、漆器にこそ、日本ならではの、また、日本でこそ高度に発達していた掛け替えのない技術・文化・伝統だったのであり、黄金とは、金箔を施された漆器文化・蒔絵がマルコ・ポーロを魅了したのではないか…。
 その漆器を<発見>して、美しく且つ丹念に塗り重ねられた漆器に、これまた技術の粋を尽くした金箔。蒔絵。これこそが、日本にのみ見出した黄金文化だったのではなかろうか。
 そんな説を唱える人もいる。

 蒔絵がジパングの文化の粋だったかどうかは、小生には判断できないが、漆器が日本で古来から高度に発達していたことは、間違いないようである。
 三内丸山遺跡という縄文時代の遺跡から漆器が出土したことは、興味のある人には周知の事実だろう。
 尤も、漆工芸の文化が大陸から渡ってきた面もあるのは、否定できないようだ。問題は、では、縄文時代の漆の文化も大陸由来のものなのかどうか、なのだろう。
 が、しかし、仮に縄文時代の土器が大陸の文化とは分離できないように、漆器の技術も日本で独自に生まれたものではないのだとしても、高度に且つ独自に発達していったのは、日本においてだった、とは言えそうである。
 どうやら、漆の木が育つためには、日本の気温とか湿度などが相応しかったのだろう。器の土台となる木々も豊富だったわけだし、漆の文化は日本で根付き発展を遂げたと思っていいようだ(この点は、土器文化との絡みも含め、もう少し、常識的なことだけでも言及しておきたいが、ここでは略す)。
 とにかく、縄文時代早期の遺跡から、漆塗りの副葬品が大量に発見されている:
垣ノ島B遺跡
漆(うるし)塗りの櫛(くし)

 漆塗りというと、誰しも連想するのは、輪島の地だろう。
 この興味深いサイトには、輪島の塗師について書かれているが、この「塗師」を「ぬりし」と読んでは拙い。「ぬし」と読むのである。
 かの輪島に何故、漆塗りの高度な技術が発展したのか、その秘密は分かっていないことが多いらしい。古文書の多くが、水害や火事その他により消失し、詳しい歴史的経緯が不明になっているからである。
 昨日のラジオでは、この輪島の地では、税が異常に高かったという話を聞いた。88%とも。信じられない課税(年貢)割合だ。
 これも、「輪島の塗師は、形や模様についても考えるプロデューサー的な仕事も兼ねる。また、輪島塗の特徴に、行商という販売スタイルがある。塗師自身が全国のお得意さんをまわって、注文をとり商品を売るのだ」という点に秘密があるようだ。
 つまり、作った産物を独自に販売するルートがあるので(例えば、北前船で漆器などが北海道へも運ばれ売られていた、など。商人たちは陸路を使ったらしい)、法外なとも思える高税率を課しても、構わなかったのだろうとされている。
 現代の漆工芸家の目から見ても、縄文時代の漆工芸品の技術はかなりのものだったという。既に相当程度に漆の技術が極められていたというわけだ。
 そんな漆工芸品。その粋である金箔を施された、漆の技術を根幹とする蒔絵や襖その他の黄金の技術の数々。その総称が黄金の国=ジパング=ジャパン=漆器となったのだろうと、推測することが可能なのである。
 ここでは、漆器やジャパンについての簡単なメモに終わっているが、興味深い話題なので、追々、追記もしていきたいものである。



                                (04/09/16)
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by at923ky | 2005-03-14 08:48 | 古代・歴史・考古学

水フォーラムのこと

 米英によるイラク攻撃関連の報道が目立って、あまり話題にはならなかったが、水フォーラムがこの3月、日本において開催されていた。
 昨日、NHKラジオでも改めて水フォーラムに絡み、水の問題が採り上げられていた。念のため、水フォーラムのサイトを示しておく。
 その冒頭にあるように、「3月16日から23日までの8日間にわたって京都、滋賀、大阪の琵琶湖・淀川流域において開催された第3回世界水フォーラムは、盛会のうちに幕を閉じ、100以上の新しい約束が示された。フォーラムには、182の国・地域から24,000人以上が参加したが、これは当初予想されていた8,000人という参加者数の3倍にも及ぶものであった。 」と、実は水に関しては日本もそうだが、世界的に重大な関心を持たれているのである。
 小生は以前、「日本は水を大量輸入?!」と題して若干の発言をしている。

 重複を恐れず、再度、水問題に関連して付言したい。

 日本は水に関しての危機感が薄い。逆に言うと、薄くても何とかやっていけるということでもある。洗濯でも食器洗いでも水をジャブジャブ使い、洗車でもホースから水を流しっ放しにしている。あるいはトイレの水。
 なるほど、飲料の水とは浄化などの程度は違うが、呑めないことはない。水に切迫したら、間違いなく手を(口を)出すだろう。まして、所謂、貧困に苦しむ国々だったら文句なしに上等の飲料水に違いない。
 実際には、「世界では、24億人もの人が適切な衛生施設にアクセスできず、11億人の人々が安全な飲み水を利用できないでいます。また、安全な水を利用できていても、衛生面や水質源の水質に問題を抱えている国が多くあり、このような状況は水関連の病気の多発にもつながってい」るのだ。
 そう、文字通り、泥水を啜っている人口が世界で10億人以上もいるのである。

 さて、前にも述べたように日本は降水量が多いが、実は山国で大部分の水は一気に海に流れ出してしまう。単位面積あたりの降水量の少ないヨーロッパは、平坦地が広く、川の流れは緩やかで、つまりは(極端に言うと)日本は雨水を急斜面からただ流すだけなのに対し、ヨーロッパなどは雨水は盥の上に溜めているようなものだ。
 日本はたまたま森や山に水を溜めているから、泉があり温泉の水(湯)も豊かに感じられているに過ぎないのだ。近年、ようやく雨水の利用とか、浸透するアスファルト舗装とか、屋上の緑化などが推進されつつあるが、今後、ますます加速することを期待したい。
 ところで、これも前に述べたことだが、産業と水とは関わりが深い。半導体も含めて、製造過程においていかに潤沢に水が使われていることか。製品を輸入するとは、水を輸入することに他ならない所以である。
 ということは、先進国、産業の高度に発達した国ほど、水を豊富に使っていることになる。その産業に農業も含まれることは、これまた以前に書いたとおりである。
 念のために、関連する部分を引用すると、「食糧生産に必要な水をバーチャルウオーター(仮想水)と呼ぶ」が、「日本が輸入している「仮想水」は、沖グループの計算によると、年間1035億㌧。国内で使われる農業用水(同590億㌧)の2倍近い数字である。」なのである。
 つまり、大方の日本人の目に見えない形で、膨大な量の水が費やされているわけである。
 今後、ますます中国での産業活動が活発になることは目に見えている。また、エネルギー浪費国・アメリカはますますエネルギー(資源)も水も浪費することは明らかだ。
 ところで、水はカネと同じで天下の回りモノという見方がありえるかもしれない。
 が、これは正しいようで実は正しくない。なるほど、どれほど潤沢に水を使っても、水が消えるわけではない。なるほど製品になる過程で水が使われるのは事実としても、製品の中に水が組み込まれているわけではないのだ…。垂れ流された水は、下水を通じて海かどこかへ去っていく。だったら、ドンドン、水を使ったって構わないのではないか…。
 事実誤認が少なくとも二つある。まず、上記したように、産業で使われる水は、場合によっては後進国だったらすぐにも飲み水として使われることが可能だという(皮肉な現実は依然として残る)こと。さらに、製品は作られ続ける、ということは、製造過程において膨大な水が専有されつづける、よって、水は天下の回りモノでありつつも、実際には一部の分野や地域での専有物状態になり続けるということである。
 今後、世界において明らかに不足する物は、水と食糧だと言われる。人口の増加のペースが急激に落ちない限りは、そして中国やインドやロシアが今以上の産業活動をやめない限りは、水(食糧)の需要は急激に拡大する。
 そして、その食糧は、要するに土地の問題であり水の問題なのである。
 
 さて、ここに気になる状況が生れつつあるように感じられる。それは燃料電池の問題だ。今後は、新しいエネルギー供給手段として燃料電池が急拡大することが見込まれる。というより、これからいよいよ本格化するのだ。当面はガスや石油が燃料電池のエネルギー源として使われるが、次第にバイオマスに、そして将来的には空中から水素(と酸素)を直接、供給することが可能になるのだろう。
 ということは、水が燃料電池の周辺に発生することになる。その水はどう使われるのか。いずれにしても、やはり水が燃料電池のある場所に集中することになる。産業の過程で水が専有されていたように、燃料電池を所有できる国や地域に、やはり水が一極集中することになるのではないか。
 しばらくは(燃料電池の規模からしても)問題にならないだろうが、いずれ、問題になると予想する。
 とにもかくにも、どんな工夫をしようとも、水は高度な産業に関わり得る地域に集まるようになるのだ。水の一極集中、あるいは、水の偏在というのは、気候や環境の変化と相俟って、想像を絶する問題を齎すことが予想されるのである。 
 気になる事実に最後に注目して欲しい。それは、「1991から2000年の10年間で自然災害でなくなった人の90%以上が、集中豪雨や洪水といった極端な水文現象の結果として命を落としてい」るという現実である。環境異変、は水異変という形で既に露となっている。
 水の偏在は、近い将来、食糧生産をも阻害しかねないのだ。
 人類は過去、戦争の歴史だった、だからこれからも、というのはとんでもない思い違いだ。これからは地球環境との戦いが全人類規模で為されなければならない、そんな時代に至っているのである。
 世界は今、戦争(と言う名の環境破壊)をしている余裕などないのだ。



                                (03/04/03)
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by at923ky | 2005-03-13 12:37 | コラムエッセイ

パンタ・レイと諸行無常との間

 パンタ・レイと聞いて、すぐ分かる人は少なからずいるのではなかろうか。古代ギリシャの哲人・ヘラクレイトスの言葉である。
 ヘラクレイトスは古代ギリシャの哲学者の中でも人気があるほうなのではなかろうか。別に人気ランキングで調べてみたわけではないけれど、アナクシメネスやデモクリトスやターレス、パルメニデス、アナクシマンドロス、エンペドクレスらと並べると、やはり断然、ヘラクレイトスの名が筆頭のような気がする。
 但し、あくまで人気度である。哲学思想や思想史の上での重要度ではない。
 そうしたものを加味したなら、プラトンやソクラテスあるいはアリストテレスは別格として、ソクラテス以前の哲学者の中では、ターレスを挙げる人もいるかもしれない。水の哲学のターレスなのだ。あるいはピタゴラスの名を挙げる人もいるかもしれない。幾何学の哲学、神秘の数のピタゴラス。
 でも、小生の学生時代以来の愛読書・山本光雄訳編の『初期ギリシャ哲学者断片集』の中でも、ヘラクレイトスの箴言めいた言葉の数々は、瞑想に耽らせるに十分な雰囲気を漂わせているし、ご本人の変人振りでは際立っている。
 ヘラクレイトスについて簡単なエッセイを書き進める前に、彼のことを知らない方のために多少は紹介しておくべきだろう。が、小生の拙い紹介よりこのサイトを参照願いたい。
 ところで、今、紹介したサイトにもあるように、「ヘラクレイトス(Parmenides, B.C. 6-5C.生没年不詳)は、今も述べましたように現在のトルコが位置する小アジアのエフェソスで生活しました」という。
 ギリシャの地ではないのだ。エフェソスというのは、知っていたが、小生はてっきりギリシャの何処かだろうと思い込んでいた。迂闊である。
 さて、彼は、「暗い人」とか「泣く哲学者」と呼ばれている。
 思想が深く、凡人には窺い知れない内容だということもあるし、ペシミスティックな世界観があ
り、こんな悲惨な世界に生きる人々が可哀想だと泣くのだと言うのだ。
 なんだか、余計なお世話で、滑稽でもある。
 こんな人がもし、現代にもいるとしたら、きっとホームレスの方と見分けがつかないのではなかろうか。世の常識人と相和すわけがない。綺麗な街中のどこに生きる場所を見出せるだろうか。
 おっと、大学という恰好の場所を忘れていた。そんな人がキャンパスには多いんだろうな。
 その彼は、「ミレトス学派の伝統を引き継いで、万物の根源を火とし、その火から万物が生じたと考え」たという。そもそも、古代ギリシャの哲人は、浮かれたように万物の根源を探求した。探し回った挙げ句、水だ、火だ、数だと言い張ったのである。
 そう、ヘラクレイトスは万物の根源を火だとしたのだ。そして、「絶え間ない変化を見せるこの世界こそ真の世界の姿であり、「万物は流転する」(パンタ・レイ)」と主張するに至ったのだ。
 あるいは、「彼は万物のこのような変化を川の流れにたとえて、「君は、同じ川に二度入ることはできない」とも言っています。(略) なぜなら私が二度目に川の流れに浸ったときには、川の流れも私自身も既に変わっているから」とも言う。
 が、彼の思想が深いとされるのは、「ヘラクレイトスは、さまざまに姿を変えるこの自然の変化をてんでばらばらに変化する無秩序な変化とは考えませんでした。彼は、この変化は、様々なものの対立によって起こっていますが、この対立によってこそ逆に万物は調和を保っているのだと考えてい」た点にある。
 万物が流転するにも関わらず、自然の変化が無秩序なものではなく、むしろ、「様々なものの対立によってこそ逆に万物は調和を保っているのだと」考えるから、彼は哲人なのである。
 この分かりにくい点の説明は、同サイトにある。「万物の対立は、「弓やリュラ琴のそれのような、逆に向き合った調和」と言われているように、ギターの弦のように、相反する方向に振れながら、それでも全体として一つの調和を保っている」、と。
 そして、「ヘラクレイトスは、このような対立によって万物に調和が保たれる仕組みを神ともロゴス」とも言う。
 まさに、ここから哲学が始まっているのだ。万物が流転するという洞察だけなら、かなり卑近な程度だとしても、小生にだって洞察できるかもしれない。が、そこで終わってしまうのが凡人・俗人の悲しいところである。
 ヘラクレイトスは、自然に生きよというが、それは、「私たち人間もこの世界の一部ですから、対立の中に調和を保つ世界のロゴスに従って生活するしかない」という認識を持つということを意味する。それがなかなかできないから哲人になりきれず、俗人のままなのだ。
 ところで、このサイトにもあるが、この透徹した厳しい哲学を示されているにも関わらず、後段では、「以上のような考え方というか人生観は、日本人には馴染みやすいものでしょう。「すべては流れ去る」という考えは、まさに仏教の「諸行無常」ということであり、自然のロゴスに従がう生活は、老子の「無為自然」、あるいは松尾芭蕉の「造化にしたがひ、造化にかへる」(笈の小文)の思想に通じるものがあるのではないでしょうか。」と続く。
 一体、何を読んできたというのか。
 ヘラクレイトスの「パンタ・レイ=万物は流転する」の思想と、仏教の「諸行無常」や老子の「無為自然」、あるいは芭蕉の人生観・自然観とは、実は似て非なるものなのではないか。そこを認識しているからヘラクレイトスは哲人なのである。
 もう一度、確認しよう、万物は流転するという思想と、「諸行無常」や「無為自然」と通底すると言えるのだろうか。
 どうやら、ヘラクレイトスが、言う、ロゴスに鍵がありそうである。
 ロゴスというのは、「言葉」や「法則」や「論理」などを意味する。いかにもギリシャ哲学を象徴する、ある意味で根底的な心棒のような概念である。
 そのロゴスに対立する概念に「カオス」がある。通常、「混沌」というふうに訳される。そう、ヘラクレイトスは、この世の根源を万物の流転と洞察しつつ、同時に、対立の中に調和を保つところのロゴスが支配していると認識しているのだ。そのロゴスに従って生きよと彼は言い放っているのである。
 一方、敢えて東洋的な観念である、「諸行無常」や「無為自然」を性格付けるなら、それはカオス的ということになるのではないか。この世は不可思議で理解不能で、まさに混沌の闇に没しているのだというやや情緒的な認識なのではないかと思われる。
 が、ヘラクレイトスは、万物は流転すると言いながら、その根底にロゴスを置く。ロゴスを見極めている。そのロゴスに従えと言う。ロゴスに従うことが自然に従って生きること、自然に生きることなのである。
 さて、しかし、ロゴスに従って生きるとしても、そのロゴスが、この場合、万物は流転するであり、万物の根源は火のように変転極まりなきものであるとしたら、やはり詰まるところ、「諸行無常」や「無為自然」と何処が違うと言うのか。似たり寄ったりではないのか。
 しかし、やはり違う。ロゴスというのは、論理であり言葉であり、法則である。法則というのは、厳格なものであって、その都度、違うルールがあるというわけではない。だったら、法則とは言わない。法則である以上、常にその法則の縛りが効いている。
 また、そこには言葉であり論理である以上は、明晰な理解が為され得るのだという認識も含まれる。決して混沌たる闇ではないのだ。戦いがあると思えば平和がある。その両者があるという。この世が戦いのみに終始するなら、もう、この世を見限ってしまえばいいが、そうはいかない。平和だってありえる。戦争と見合うほどに。
 絶えず川は流れるが、その流れの中に変わらないものもありえる。何かの法則も潜んでいる。単に、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」(『方丈記』)と見切るだけでは済まない。それだけだというなら、世捨て人になれば済むことなのだ。この世を睥睨するか斜視するか、侮蔑するか、いずれにしても、この世の混沌の中に秩序を求めようとか平和を実現しようとか法則を見極めようなどはしない。する意味がない。
[『方丈記』(鴨 長明)はここで読める。]
 が、ロゴスが支配し、しかもそれが「対立の中に調和を保つ世界」なのだとしたら、今、眼前に戦争があるとしたら平和の可能性を追求しろということになりえるし、川の水が流れて止まないとしても、だから全てが流れ行くままだ、と、あとは知らん顔、という怠惰は許さない。その流れて止まない中になにかの法則性を探求しなければ、ロゴスを貫徹したことに、ロゴスに従ったことにならないからだ。
 ギリシャの哲学の示す厳しさ。それは論理的ということだろう。あるいは論理や法則性への渇望、貪欲さである。感情に堕すことを許さない厳しさがある。だから哲学の名に値する。繰り返すが、ヘラクレイトスの万物は流転するという思想と、東洋の「諸行無常」や「無為自然」とは似て非なるものなのである。決して、諦めの哲学でも癒しの思想でもないのだ。
 尤も、だからといって、どちらがどうだというわけではないのだが。



                                      (03/04/14)
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by at923ky | 2005-03-04 10:58 | 哲学エッセイ