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文章読本という発想

 新聞の書評欄は、少しは本好きな小生としては、必ず目を通す欄である。昔ほどには丁寧に読まないけれど、でも、一通りは読み流す。
 何故、以前ほどに丁寧には読まないかというと、やはり思うのは、昔は若かったせいもあるが、なんだか、世の中に本はたくさんあっても、ポイントとなるような、あるいは必読とされるような教養書の類いは、いつかは、全て読み尽くすことができるかのような幻想を持っていたということが、大きいような気がする。

 今になってみると自分でも笑いたくなるような根拠のない幻想に過ぎなかったのだけれど、でも、文学全集とか思想全集とかが、まだそれなりに持て囃されていた時代のほぼ最後に連なる人間として、結構、懸命に教養書なるものを追いかけていたのである。
 が、恐らくは既に80年代の半ば頃には、自分自身の息切れもあるが、同時に世界の多様化が急激に現実化し、そもそも教養なるものが死語と化してきたようだった。
 本が読まれなくなったという俗説がどこまで正しいのかの詮索はここではしないが、いずれにしても、多少は自分自身の視野(世間)が広まったこともあるのだろうが、教養なんてモノは、仮にあったとしても、それは無数の世界のそれぞれに教養の定番なるものがあり、自分が以前、これが教養と思っていた(思わされていた)世界なんて、日本のほんの一部の出版界(や、それに連なる教養人)の限られた視野と都合で織り成されたものに過ぎないのだと、いくら晩生(おくて)の小生でも気づいてくるわけである。
 いわゆる文学の世界に限っても、その世界は果てしなく広く且つ、多様である。
 しかも、南米の文学や東欧の文学、アフリカ作家の作品、アジア各国の作家と、次々と新しい(しかし、実はとっくに展開されていて、日本に紹介されたのが遅まきながらだったに過ぎない)文学(作家)が紹介され登場してくる。
 同時に、少しは読書の体験を重ねてくる中で、自分なりの嗜好が見えてくる。幅広く触手を伸ばしているつもりでも、自然と読む分野や作家が限定されてくるのである。
 さて、今日の朝日新聞の書評欄に斎藤美奈子著の『文章読本さん江』(筑摩書房刊)を扱った高橋源一郎氏による書評が出ていた。
 
 高橋氏による斎藤氏の主張の要約によれば、
" あらゆる文章読本に共通するもの。それは名文信仰と駄文差別」だ。だが、「彼らがあげる『名文』の間に共通点はいっさいない。『名文』は個別具体的に提示はできても、定義はできないのである "

" かくして、「文章読本」の著者たちは、恣意的な「名文」(要するに玄人の文章)を頂上とし、「駄文」(素人さんの文章)を底辺とする、階級社会を不断に作りだす。彼ら(すはわち、「文章読本」の著者+名文の作者)は、この本質的に「男性社会」である階級社会、における貴族なのだ "

 従って、以下のような断罪となる。
 高橋氏の引用をそのまま再引用すると、

「文章とは、いってみれば服なのだ……と考えると、なぜ彼らがかくも『正しい文章』や『美しい文章』の研究に血眼になってきたか、そこはかとなく得心がいくのである。衣装が身体の包み紙なら、文章は思想の包み紙である。着飾る対象が『思想』だから上等そうな気がするだけで、要は一張羅でドレスアップした自分(の思想)を人に見せて褒められたいってことでしょう? 女は化
粧と洋服にしか関心がないと軽蔑する人がいるけれど、ハハハ、男だっておんなじなのさ」

 名文信仰は、どこか教養信仰と重なっているような気がする。
 世の中には、範たる定番(玄人、専門家、名人)の世界がある。それを目指して、あまたの定番である教養書を渉猟し、やがては、自分もその序列のどこかに食い込む…。
 それは、ある意味で、自分の中には確固たる信念なり価値観(価値基準)なるものがないことを示唆する。結果として世間の評価を基準として頼りにするしかなく、世の中で偉い人がいいというものをとりあえずは盲目的にいいとして追随していくことになる。
 ところで、今更学歴信仰など通用しない、実力の世の中であり、自己責任の時代なのだ、と喧伝はされている。
 それでいて、若い頃から序列信仰は学業などを中心にして徹底して骨身に浸透している。偏差値はもとより、内申書などを通じて、今は高校どころか中学どころか小学校どころか、幼稚園の段階で振り分けが始まってしまっている。
 その振り分けに、多少でも食み出した人間は、落ち零れであるとあまりに早く宣告されてしまう。あるいは、お前は全国で(全校で)何番目前後の人間であると区分けされてしまう。
 それでも、多くの男は、いつかは仕事で身を立てるべきという古き価値観に縛られているので、歯を食いしばってでも壮大なる序列のピラミッドの少しでも上を目指して時には不毛な努力を積み重ねる。
 一方、社会(政府を中心とする建前の上での世間)は女性の力の再評価と適正な潜在能力の活用を謳いながらも、実際には、多くの古い発想に縛られた企業(の中のおじさんたち)が居座っているものだから、そうした連中は女性は就職しても早々と結婚して辞める(辞めるべきもの)と思い込んでいる現実があり、そうした現実の冷厳なるプレッシャーを敏感に感じ取る女性たち(の一部)は、勉強はそこそこに切り上げて、化粧と衣装とダイエットに関心の大半を振り向けるようになってしまう。

 しかしこれは女性が軽薄なのではなく、社会の現実に敏感だったが故なのだろう。
 頑張って勉強しても、一旦、会社に入ると、碌でもない仕事に回されることを親や雑誌やマスコミや口コミなどを通じて読み取っているから、それより幸せになるには、対人関係であり、対他者の関係性の中で居心地のいい場所や位相を見出そうとする。実力といいながら、実際には見栄えのいいものが贔屓されるし、縁故のあるものが引き立てられるし、陰でうまく立ち回るものが出世するわけで、そこには勉強はほとんど関わりを持つ余地がないのである(よほど秀でた才能や能力がないかぎりは)。
 実は、女性に対してのみ従来はきつかった、そうした隠然たるプレッシャーが、今は男性にもひしひしと感じられるほどに強くなっている。ほんの一部のずば抜けた連中以外は、学歴でも実力でも競争に勝ち抜けられるわけではなく、何かもっと別の常に揺らいで定まらない価値基準によって左右されることを看取し始めているわけである。
 何しろ、社会に進出する女性が増えたということは、つまりはその人を評価する人間の半数が女性ということになり(従来は男性が圧倒的に多かった)、女性に評価されない男性は、学歴や実力が極端に傑出していないかぎり、ウダツが上がらないわけである。女性に支持されない男性は活躍の余地が狭まっていくわけである。
 つまり、従前は女性にのみ懸かっていた実力以外でのプレッシャーが、男性にも降りかかるようになったというわけである。
 逆に女性は、専門的な実力(資格)を備え、かつ、いわゆる実力以外での贔屓・コネ・縁故社会の中で生きる知恵(経験)も先輩方から受け継いでいるから、鬼に金棒であり、可能性としては未来が開けていることになる。
 すでに価値観の流動化は、凄まじい勢いで進行しているようだ。
 ここでは女性と男性というふうに区分けしたが、世界が流動化しているということは、海外の多様な価値観の流入も激しくなっているということだ。現実は、もっと流動化現象が急激に生じているのだ(敢えて、ここではグローバル化を持ち出さないけれど)。
 どんな教養も、相対的なものに過ぎない。百科事典的な素養を身につけていても、世界の文学を読み込んでいても、だから何? それがどうしたの? 肝腎のあなたは誰なの? 何ができるの? 人間としてどれだけ魅力を持っているの? 自分なりの判断基準は持っているの? 等々が問われる。当たり前といえば当たり前なのかもしれない。

 価値観が序列化されていた過去においては、一定の教養を持つこと、その価値観の序列に与することが文句なしに素晴らしいことであり、その人が尊敬されることに繋がったし、また、それが自信にも繋がった(たとえ砂上の楼閣的自信に過ぎなかったとしても)。
 が、その価値をまるで認めないか、ほとんど意味をなさない都会的社会では、崩壊した地盤の上で揺らぎつづけるしかないのだ。どこにも、世界共通の価値観などない。誰にも通じる教養もなければ、文章の定番もない。
 大切なのは、自分で自分なりの誰にも依存しない価値観を断固として見出すことに尽きるのだ。


                                  (02/04/08)
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by at923ky | 2005-02-26 13:45 | コラムエッセイ

春、爛漫 それとも 春、爛爛

 春、爛漫である。もう、東京では桜が五分咲き以上、印象からしたら満開に近い。
 こんなに早くていいのかって、心配性の小生は感じる。何か、気象異変が生じているんじゃないか、異常に早い桜の開花は、その鮮やか過ぎる警告なんじゃないかって、思ったりするのだ。
 そんな中、「消える世界の氷 予想超える速さ」ということで、「地球温暖化のせいで、北極や南極などの氷は従来の予想を超えるスピードで解けつつある、と米環境シンクタンクの地球政策研究所が12日、発表した」というニュースを見た。

 ある研究者の最近の研究によると、このまま温暖化が進めば、「北極海を覆う氷」は、「今世紀半ばには、夏に氷が消えてしまいかねない」とのこと。
 温暖化の影響が、加速度を増して進展していることが、北極や南極の事情を見ると、覿面に分かる。
 今は、テロとか戦争とかの時代ではないんだね。正義の論理を振りかざして、それで勝ち残ってみたら、世界の風景が一変していたってことになりかねない。戦争って、所詮は潜在するエネルギーの急激な発散なのだし。
 京都議定書も大切だけど、日本は率先して、極端なくらいに環境重視の理念を選択すべきだと思う。
 日本経済が低迷を続けている中、将来に日本が生き延びていく上での戦略的な産業として、バイオテクノロジーとか、ナノテクノロジーとか、さまざま考えられている。
 しかし、徹底して環境に優しい、持続可能な経済や社会のあり方を日本は、模索すべきなのではないか。どうせ不況で苦しんでいるんだから、どうせなら、今こそ、将来を安心しえる理念を掲げることが、逆に安心感を与えてくれるような気がする。
 安心と安全、そして環境(自然)に関して身体に対して無難であることを第一の経済の基準とする社会。
 今、アメリカは京都議定書の枠組みから逸脱して、あまり現実的な構想を示している。
 が、小生は、アメリカは今、なるほど、一方において現実的な選択をし、一見すると産業界の要請にこたえているかのようだけど、半面、エネルギー政策で、世界を引っ張るような技術を開発したら、一気に、どこの国よりも環境対策で進んだ政策を示す可能性もないとはいえないと思っている。
 政権が変われば、政策理念も大変貌するお国柄だからね。
 それはともかく、マスキー法が出て、自動車の排気ガス対策でアメリカをはじめ世界の自動車会社が苦しむ中、日本のホンダがCVCCエンジンを開発することで、一気にアメリカ市場に進出したように、環境において、今度は日本が自分で過酷なまでの環境基準(燃費や排気ガスやエネルギー循環など)を設け、それを達成することを選択すべきだと思うのだが。
 閑話休題:
 ところで、ある日、ラジオで誰か女性タレントが「春、爛々」と言っていたという。すぐに傍にいた人に春、爛漫だよと訂正されたらしいが。
 確かに間違えではある。年を取っても意気軒昂として眼光が鋭い人の目の輝きを「目が爛爛と輝く」なんて、表現するわけだろう。
 でも、「春、ランラン」のほうが五感として、生きがいいような感じもある。何だか弾むような若さを感じる。そのうち、「春、爛爛」で通用するようになったりして。



                                    (02/03/21)
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by at923ky | 2005-02-26 13:38 | 随想

高松塚古墳の壁画近くにカビが

 新聞などで報道され、御存知の方も多いだろうが、奈良県明日香村にある高松塚古墳の壁画近くにカビが見つかったため、文化庁は、保存方法を検討するため専門家の手を借りることにしたという。
国宝に指定されている高松塚古墳
 以前にもカビは見つかっていたが、白カビや青カビでアルコールなどでふき取った。が、今回見つかったのは、取り除きにくい黒カビだという。絵が描かれた部分には被害は及んでいないとも記事に書いてあった。
 この古墳が見つかり有名になったのは、72年で、小生が大学生になった頃に当たる。小生が日本の古代史とか考古学(但し、エジプトなど海外の考古学には子供の頃から興味があった)に関心を持ち出したきっかけの一つになったものだ。
 ところで、以前、「中国古代の四神(朱雀(すざく)、玄武(げんぶ)、青竜(せいりゅう)、白虎(びゃっこ))が、国内で初めてそろって確認された奈良県明日香村のキトラ古墳」でも、高松塚同様、壁面に「人物群像も描かれていたが、石室内部が浸水したことで消されてしまった可能性が高いことが(略)分かった」と報じられたことがある。
 当然、修理ということになり、「キトラ古墳保存修理費に1億4000万円」という記事も散見される。
 さて、憂えるのは、数多くの古墳、特に天皇陵である。
 その内部がどうなっているのか、秘密のベールの向こうにあって、実態は分からない。かなり限定的な形で折々一部の研究者に公開されることもあるようだが、学術的に徹底して調査・
研究されたわけではない。まして、その調査に基づいてきちんとした保存に動いたという話も聞かない。
 そもそも、天皇陵と指定された古墳は多いが、被葬されている人物と天皇陵の名称とが一致していると確認されたのは、ほんの僅かしかない。あとの大半は、明治の初め頃に慌しくどの墓がどの天皇だと決定されたままで、正しいかどうか不明なのだ。
 天皇陵は、国民の財産である。その大切な宝を風雨と歳月の経過による劣化に任せていていいのか。
 仮に、万が一、天皇陵に比定されている陵墓が管理されているとしても(恐らく違うだろう。天皇陵に深く分け入って調査・研究もしていないのに、本格的な保存などできるはずもない)、では、「陵墓参考地」はどうなるのか。
 「陵墓参考地」とは、「天皇の墓ではないかと見られる」古墳のこと。もしかしたら、本当はそれら「陵墓参考地」にこそ、本当の天皇陵があるのではないかと、内心は宮内庁でさえ思っている陵墓のことだ。
 それが全国に二百あるといわれる。
 本当に天皇の財産であり、国家の財産である(国民の財産である)というなら、キチンと、現行の天皇陵も「陵墓参考地」も含めて調査・研究・修復・保存に動くのが筋なのではないか。
 これは憶測だが、宮内庁は天皇陵を徹底して研究されるのを恐れているのではないか、つまり、研究されることで天皇家の出自が明らかになるのを恐れているのではないか。
 無論、憶測である。邪推である。根拠などない。研究されたことがない以上、憶測の域を出ない。が、その代わり調査されない以上、否定もできない。
 こんな憶測をされないためにも、キチンとした調査研究保存が大切なのだと思う。
 時代は変わったのだ。一昨年、現天皇が、日韓共催のワールドカップに絡んで、「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています」と語ったことは小生にも衝撃的だった。少なくとも日本では(天皇家と朝鮮との関わりを表立って語ることは暗黙の)タブーだったからだ。
 その年の夏、小泉首相が靖国参拝をしたこともあり、韓国の人々の感情を害し、現天皇による韓国訪問が実現しなくなったこと、韓国における日本への悪感情を和らげる意図があってのものだったろうか。
 云うまでもないが、天皇の発言を読むと、天皇家の出自を語っているのではない。「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」と述べられているだけだ。
 所謂、「ゆかり発言」である。
[桓武天皇の生母である高野新笠(タカノニイガサ)や、「ゆかり発言」につい
ては、このサイトを参照]
 いずれにしても、もっと日本人の視野を広げるためにも、そして大切な遺跡の現状を知り、保存し後世に伝えるためにも、天皇陵及び陵墓参考地の調査・研究・保存に動いて欲しいものだ。



                               (03/03/14)

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by at923ky | 2005-02-19 11:45 | コラムエッセイ

今だ決めかねている(死刑制度の存続)

 Aさん、Bさん、こんにちは。

 小生は今もって、死刑制度の存続に賛成も反対も決めかねています。その逡巡している理由は、死刑が犯罪者にとっての究極の(最も重い)刑になりうるのかという点、次は、今も昔も冤罪事件は絶えないだろうという点です。
 科学的方法が取り入れられているから、冤罪事件が減るだろうというのは、ただの希望的観測だと思います。
 今、日本では重大犯罪も含めて刑事事件の未解決件数が増大しています。
 これには様々な理由があるでしょうが、そもそも犯罪捜査の困難さがあるからというのが、一番の理由でしょう(社会的背景もあるでしょうが、この点は別の機会に)。
 ということは、仮に犯罪が摘発された場合であっても、それが真犯人の摘発だったのかどうかは、疑問が残る可能性を示しているわけです。証拠物件が少ない場合、自白や証言を頼りにするわけですが、自白や証言の信憑性の薄さは言うまでもありません。
 小生の感情からしたら、死刑を望むとしか結論はありえません。誰か自分の親しい人が殺されたりしたら、殺した奴を裁く以外に感情の持って行き場がないと思います。
 が、それでは、犯罪者を殺す(自分がでなく、刑の執行によって殺した場合でも)ことによって、悲しみを抱く関係者を新たに作り出すことになります。きっと、その関係者は私をか、国をか、誰か不特定な人をか、恨むでしょう。つまり、怨恨の連鎖が続くわけです。
 これは、今のアメリカによる報復戦争も同様です。アメリカがテロ集団を殲滅すると言ったって、テロの原因そのものが消えるわけもなく、かえって、アメリカへの憎しみが増幅されるだけでしょう。
 
 話が死刑が本当に刑として犯罪者にとって一番、重いものであるかどうかは疑問だという点に戻ります。以前、M・ギルモア著の『心臓を貫かれて 上・下』(文春文庫刊)を読んだことがあります。
 これは、彼、ギルモアの兄(や、その犯罪一家)の物語です。ギルモアの回想の形ですので、実話と言っていいと思います。その兄のギルモアは、徹底して犯罪に生き、反社会的姿勢を貫いた男です。彼は、死刑を望むと死刑が確定してからも表明していました。
 まさに彼にとっては、死刑こそが願望だったわけです。
 無論、犯罪者の全てが彼ほどに知性があるわけもなく、死刑を望むわけでもありません。死刑の宣告を受けた瞬間、絶望に陥る人もいるわけですし。

[ ギルモアの件と類似するというわけではないが、死刑を宣告され、本人の望みを叶えるかのように、さっさと死刑が執行されてしまった事例に、かの「池田小事件」がある。
 念のために、大凡のことをメモしておくと、「01年6月8日午前10時すぎ、大阪教育大付属池田小に宅間被告が出刃包丁を持って乱入。1、2年生の児童8人を刺殺し、児童・教師15人に重軽傷を負わせた。宅間被告は教師に取り押さえられ、大阪府警が殺人未遂容疑で現行犯逮捕。過去に精神障害の診断歴があったが、大阪地検は精神鑑定で責任能力が認められたとして同9月、殺人、殺人未遂などの罪で起訴した」というもの。
 宅間守死刑囚の死刑執行は、死刑判決確定1年という異例の早さだった。早期の執行は、宅間死刑囚本人の希望でもあった。被害者等への謝罪もなく、事件の真相も曖昧なままに措置されてしまったことは、様々な方面に禍根を残す結果となったように思える。
 また、こうした事件では、「精神障害の診断歴」があったことが問題視され、その際、報道などのやり方だと、まるで精神障害を負う人が危ない人であるかのような誤解を生みかねない、そんな通弊が付き纏う。実際に、その懸念は多少なりとも当たっていた。「大阪池田小事件による報道被害に関する調査  財団法人 全国精神障害者家族会連合会」などを参照のこと。
 とにかく不思議なのは、何故にこんなに早々に死刑が執行されたのか。小生には未だに理解できない。 (05/02/11 アップ時追記)]

 一体、どのような形が犯罪者にとって、一番、重くきつい刑でありえるのか。重労働に死ぬまで従事させるのかいいのか。でも、きつい労働を望む人だっているわけです。別に犯罪者でなくたって。
 理想を言えば(空論を言えば)犯罪者が生じることのない社会を作ることに尽きるわけですが、これこそ、人間のいない社会を作ると言っているも同然の話で、論外でしょう。
 アサハラショウコウのことを考えると、その犠牲者のことを考えると、死刑などあったって意味がないと思えてしょうがないというのは同感です。
 何か、それこそ、神経か意識そのものを徹底して痛撃する方法を考えるしかないのでしょうか。
 いずれにしても、今のところ、死刑制度があっても、それは悪い奴は、ちゃんと処罰するんだというアリバイ証明にしか役に立っていないと思っています。


                                    (01/10/20)
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by at923ky | 2005-02-11 21:04 | コラムエッセイ

山口二郎「公共放送と政治」(下)

[以下は、小生が登録しているメルマガ「PUBLICITY」(パブリシティー) 」からの転載(の続き)である。関心のある部分をそのまま転記する。但し、改行など些少の編集を施した箇所はある。当該メルマガの冒頭に「転送・転載自由」とあるのでなせるわざである。]


「PUBLICITY」(パブリシティー) 編集人:竹山 徹朗
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山口二郎「公共放送と政治」(下)である。


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 次に第二の問題に移ろう。私自身、最近のNHKニュースを見て、その報道姿勢には大きな不満を持っている。その不満はとりわけイラク戦争に関する報道を見て強くなっている。

 とはいえ、ニュースや報道番組とはそれを作る人の価値観や枠組みを通して世界にあまたある事実の中から一部を選び取ることによって成立するものである。その意味では万人が満足する報道姿勢などあるはずがない。

 アメリカの代表的ジャーナリスト、ウォルター・リップマンはその古典的名著『世論』(翻訳は岩波文庫)の中で、ステレオタイプという概念を用いてその事情を説明している。

 ステレオタイプとは事物に関する固定化されたイメージのことである。我々は自分の直接経験できないことを認識するとき、ステレオタイプに頼らざるを得ない。なぜなら、あらゆる事柄
についてその真相を知るためすべての情報を集め分析することなど、人間には不可能だからである。

 限られた情報に基づき限られた時間の中で物事を判断するためには、ステレオタイプを使わざるを得ないのである。どんな明晰な人間もステレオタイプから自由になることはない。

 しかし、ステレオタイプと現実の間には常にずれが存在する。そのずれを無視していては、人間は偏見の虜になる。また、ナチスによるユダヤ人迫害を見れば明らかなように、人々が虚偽のステレオタイプを共有するとき、社会は狂気に陥る。

 全体主義はステレオタイプなしには成立しない。ナチス支配下のドイツにおいてユダヤ人に対するステレオタイプを拒否し、ユダヤ人にも善人はいると主張したら、その人自身が迫害の対象になる。ステレオタイプに同調することは、圧政から身を守る方法なのである。

 今の北朝鮮国内で流布している「アメリカ」や「日本」というステレオタイプを見れば、我々は苦々しく思う。しかし、ステレオタイプの虜になる危険は他人事ではない。我々もまた同じ
ようにステレオタイプによって自ら正確な認識や思考を放棄しているかもしれないのである。だからこそ、メディアに流布するステレオタイプを常に検証し、ステレオタイプと現実のずれを自覚することが必要である。

 最近のNHKのニュースに感じる最大の不満は、ステレオタイプの落とし穴についてあまりにも鈍感なことである。一例を挙げよう。

 昨年末策定された次期防衛計画大綱で打ち出されたミサイル防衛システムの開発に関連して、ニュースの中で朝鮮半島北部から発射されたミサイルを日本近海上空でミサイルが迎撃するというCG画像が何度も流された。

 北朝鮮の現状についても、ミサイル防衛の技術的可能性についても、様々な情報がある。

 それらの多様な情報を捨て去り、北朝鮮が本当に日本に向けてミサイルを発射することがあるのか、短時間のうちにミサイルを探知しそれを上空で撃ち落すことが技術的に可能なのか、という二つの大きな疑問をまったく顧みることなく、このミサイル防衛に関するニュースは報じられた。

 あのCG画像は、北朝鮮は危ない、ミサイル防衛は日本を守る重要な盾になるというステレオタイプをそのまま伝えるものであり、ニュースというよりは情報操作である。

 次期防衛計画大綱は、戦後日本の防衛政策の根本的な転換を図るものであり、その妥当性に関しては十分な議論が必要である。

 逆に、このような政策転換をメディアや識者による十分な検証なしに実現したい政府にとっては、日本を脅かす「敵」の邪悪さや日本を守る防衛手段の有効性を強調するステレオタイプを国民に浸透させることがきわめて有効な戦術となる。

 防衛政策だけではない。小泉政治そのものが、「改革」、「抵抗勢力」、「民間」、「構造改革」など多くのステレオタイプを駆使し、国民を思考停止状態に陥らせることによって成り立っている。

 NHKが意図してこのようなステレオタイプを国民に振りまいているとすれば犯罪的である。また、意図せずして政府の政策転換を正当化するようなステレオタイプを流布させているとすれば、報道機関としての立場が疑われる。事は報道の中立性、公正さに関わる。

 NHKは中立公正を常に唱える。しかし、たとえばサッカー場のハーフウェーラインのように報道の世界に中立という位置が実体的に示されているわけではない。

 ジャーナリストも学者もそれぞれ何らかのステレオタイプを通してものを見ているのである。その意味で純粋な客観性を備えた人間などこの世に存在しない。

 しかし、個人も報道機関も中立、公正になることはできる。それは、自らがステレオタイプを通してものを見ていることや自らの報道がステレオタイプを流布していることを自覚し、そのステレオタイプと現実とのずれを常に検証し、是正しようと努力することによって可能になるのである。

 また自分のステレオタイプが明らかに現実と乖離した虚偽であることが明らかになれば、それを修正することこそ公正さの意味内容である。

 このような意味での中立公正を確保するためには、最初に述べた公共性を回復することが不可欠である。

 人も組織も自分の持っているステレオタイプにはなかなか気づかない。一度身につけたステレオタイプに対する執着は強いものであり、ステレオタイプに反する現実からは目を背けがちである。

 したがって、ステレオタイプの修正には異なった意見による対話や相互批判が不可欠である。開かれた対話や相互批判の場こそが、公共的空間である。

 NHKが公共放送を標榜するのなら、自らの持つステレオタイプに対する様々な批判を率直に受け入れ、検証し、誤りがあれば修正するという謙虚さを持たなければならない。

 しかし、先に述べたとおり、NHK幹部による「国対政治」は、プライベートな空間においてメディアと政治家がなれ合うことによって、自ら公共空間を貧弱にさせている。そのことをおかしいと思う感受性さえなくなっている。まさに、公共のメディアにあるまじき所業である。

 世論に大きな影響を与える公共放送に対する民主的な統制は、国会だけに任せるわけに行かない。既に触れたように国会によるチェックには党派性が発揮されがちである。

 様々な立場の国民がNHKの報道に対して自由に批判し、ステレオタイプを多角的に検証する仕組みを開発することが求められている。

 とりわけ、ニュースや報道番組で取り上げるべきテーマをNHK自身の裁量にゆだねるのではなく、多様な立場の国民から提案するような仕組みが必要である。

 小泉首相の空虚なスローガンが強力なステレオタイプになり、世論を動かしている今、NHKの公共性を回復して世間に流布するステレオタイプを検証することは、日本の民主政治にとっても急務である。

[以上、転載終わり]
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by at923ky | 2005-02-09 23:27 | コラムエッセイ

山口二郎「公共放送と政治」(上)(メルマガより転載)

[以下は、小生が登録しているメルマガ「PUBLICITY」(パブリシティー) 」からの転載である。関心のある部分をそのまま転記する。但し、改行など些少の編集を施した箇所はある。当該メルマガの冒頭に「転送・転載自由」とあるのでなせるわざである。
 本稿を転載するのは、NHKを典型とする放送のタカ派への偏向を危惧しているからである。テレビでもラジオでも、NHKのみならず民放でも、小泉政権になってから特に顕著なのだが、タカ派に都合のいい言論人や政治家の出演・登用が目立つ。
 逆に言うと、都合の悪い言論人は干される傾向が強まっているということだ。
  イラクへのアメリカの一方的な言い掛かりと攻撃でのNHKのニュース報道は、まさに大本営発表の再現のように感じられた。アメリカ側の発表が、コメントを付されたり、異なる立場からの意見も併せて伝えられることもなしに、まるで真実のように垂れ流しされていた。
 NHKよ、ここまで来てしまったのかと、慨嘆したものだった。今は、もはや、これまでかと情なく感じている。この度の事件で、一層、NHKは与党タカ派に阿(おもね)るようになるのだろうか。
 小生の勘違い、杞憂に過ぎないのなら、それはそれでいいのだけど。
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「PUBLICITY」(パブリシティー) 編集人:竹山 徹朗
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        ◆◇今号の目次◇◆

【投稿紹介】
▼山口二郎「公共放送と政治」(上)

【@編集室】
▼「朝鮮人になれる?」とキョンジャは言った(国見注記:この記事は略させてもらった。すみません)

        ◆◇     ◇◆

□□□□□□□□□□□□◆□□□□□□□□□□□□

【投稿紹介】

▼NHKの番組改編問題について、北海道大学の山口二郎さんから1月末に、以下のメールをいただいた。若干編集して紹介する。

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 竹山さん

 いつも面白く拝見しています。先日は拙稿をご紹介くださりありがとうございました。

 現下の焦眉の問題であるNHKへの政治介入について、私も重大な関心を持っています。私自身、90年代はいろいろな番組でNHKに協力してきました。

 しかし、2000年頃を境に急に「はずされた」という感じで、最近はまったくNHKの仕事はしなくなりました。特に、ある時期までラジオ第1放送で年に2,3回連続コラムのような番組を作っていたのですが、その番組の変化にNHKの変質を感じます。

 以前は、浅田彰、香山リカなどと一緒に時事的な問題を語る自由な番組を作っていました。浅田さんなど、高橋哲哉を呼んできて、昭和天皇の戦争責任を自由に論じたくらいです。

 総合テレビは真っ先に統制されましたが、ラジオと教育テレビにはそうした自由な空気が残っていたわけです。

 しかし、ラジオの準レギュラー陣も入れ替えが進み、「諸君」、「正論」によく登場する人が出てくるとともに、我々は退きました。

 海老沢体制の長期化の中で、管理が隅々にまで浸透したのでしょう。教育テレビの質を保っていたETV2000もなくなってしまいました。今のNHKは単なる政府広報局です。そのニュースは見るに耐えません。

「論座」の求めに応じて、「NHKと政治」について一文を書きました。まだ発売されていないので取扱注意ですが、竹山さんには是非読んででもらいたいと思い、送ります。

 今後ますますの健闘を祈っています。
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 いやぁ、洛陽の紙価があがるってぇもんよ。感謝です! 特に「論座」論文にはない、90年代以降の実際の体験に臨場感があり、これは貴重な証言である。

▼本誌読者には、『戦後政治の崩壊』(岩波新書)を読んで登録しました、という方がおそらく数十人単位でいるのだが、登録してみたものの、「チャタレイ夫人の恋人だとかチンスケしゃんだとかマン姫しゃんだとか、宮沢りえが素晴らしいだとか、全く政治問題に関係ない話ばかりじゃないか、不謹慎な!」と怒って登録解除した人が必ずいるに違いない。

 何より、登録した人に「山口二郎は、こんな軟派なメルマガをすすめやがって!」と思わせてたら申し訳ないなあ、でも、取り上げるテーマのすべては繋がっているのだが……と思い悩む
こともあったが、名誉挽回である。ふっふっふ。

▼この問題は、NHK寄りのマスメディアと朝日寄りのマスメディアとのケンカばかりが目立っており(NHK寄りの方が優勢)、また、問題の本質が海老沢前会長“個人”の責任問題と化し、肝心要の「表現の自由」が問われない、非常に“公正中立を欠いた”、歪んだ事態になっている。

 今回の報道の「公正中立」ぶりは――もしくは、ニッポンのマスメディアが常に唱えている「公正中立」の欺瞞ぶりは、東京地裁が週刊文春に出版禁止仮処分を出した時(去年の3月)の、マスメディアの論調を思い出せば明らかだ。あの時は一斉に反発したくせに、今回は論点をずらして平気なんだから、ちゃんちゃらおかしいゼ。

▼山口さんの論文は、「公共性とは何か」を明らかにすることによってNHKの存在意義そのものを根っこから問い返す、今までありそうでなかなかなかった内容である。要するに、「NHKは公共放送ではない」という真実を明かすわけだ。
 長文なので、2回に分ける。

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公共放送と政治

 番組への圧力があったかどうかをめぐって、NHKと政治の関係が問われている。小論では、公共性とステレオタイプという二つの問題を通して、今のNHKの抱えている問題について考えてみたい。

 NHKは民間放送と自らを区別し、公共放送を名乗ることによって受信料の徴収を正当化している。

 しかし、NHKが使う「公共(Public)」という言葉こそ、民主政治と密接不可分な公共性という観念が日本に定着していないことを物語る典型例である。

 確かに営利事業ではなく、国民一人一人の醵金によって運営するということは、公共性の一要素である。しかし、それだけで公共を名乗れるわけではない。

 公共とはすべての人に開かれたという意味であり、公開の場で議論する、誰でもそこにアクセスできるという意味を含んでいる。逆に、私的(Private)という言葉は閉ざされたという意味である。たとえば公立の美術館でも「Private」という立て札があれば関係者以外立ち入り禁止の空間であるし、民間の施設でもデパートや私鉄の駅は公共の空間である。

 従来日本では、政府が国民の税金によって仕事を行えばこれをすべて公共と呼んできたのであり、その中身や質の公共性を吟味することはなかった。

 だから、裏金作りや年金積立金の私物化を行ってきた警察や社会保険庁が公共の名に値するかどうかという議論もつい最近まで行われなかった。一連の不祥事は、NHKもこのような古き、悪しき意味における公共放送であることを明らかにした。

 国民の醵金によって運営する以上、NHKに対する何らかの民主的な統制は不可欠である。

 予算の国会承認という制度は、国会が国民に代わってNHKを統制するという趣旨で作られたものである。その意味で、国会による統制こそ、NHKの公共性を担保する重要な柱である。

 しかし、政治家はあらゆるものを権力闘争の手段にする宿命を負う以上、さらにメディアの報道が人々の政治意識に大きな影響を与える以上、NHKに対する統制も国民代表としての観点からではなく、自らの党派的な利益を図る干渉に堕する危険性を常にはらんでいる。

 したがって、公共性を確保するためには、国会(議員)によるNHKに対する監督の過程も厳しく吟味されなければならない。即ち、先に述べたとおり、誰に対しても開かれた場で、誰に対
しても説明可能な手続きや過程を通して統制が行われなければならない。さもなければ、民主的統制は国会において多数を占める特定党派による権力行使の隠れ蓑に堕してしまうのである。

 NHKの公共性を考えるときに、番組に対して自民党の政治家が具体的に何を語ったかは重要ではない。NHKと与党政治家の日常的な接触の仕方自体が、既にNHKが本来の公共性から完全に背理していることを示している。

 幹部がなぜ自民党タカ派の政治家のもとに通い、個別の事務所等(これはプライベートな空間)で予算に関する「ご説明」を繰り返すのか。

 予算の説明なら国会の逓信委員会ですればよい。

 国会議員の側で疑問があるのならば、同じく委員会の場で何時間でも質疑討論をすればよい。それだけの話である。

 国会による予算の審査が民主的な統制であるためには、議員とNHKとの接触は徹頭徹尾国会という公共的な空間で行い、その記録も国民に公開されなければならない。それが「皆様のNHK」というスローガンの本来持つべき意味である。

 閉ざされた空間で当事者同士が話をするという行為は、他人に聞かれるとまずいことを話していると推定されてもやむをえない。これが公共機関における倫理である。

 この機会にNHKには政治家に対する「ご説明」の全体像を明らかにしてほしい。

 予算や経営方針に関する国会への説明はNHKの重要な公務であり、公務に関しては国民に対する説明責任を負うはずである。いくつかの役所の不祥事が示すとおり、重要な問題をプライベートな空間で決めることは公共財産を私物化することにつながる。

 NHKの場合も、一部の幹部と政治家が密室で馴れ合うことによって、報道を私物化しているのである。

 県議会議員と県庁職員との接触をすべて記録に残し、情報公開の対象とした片山善博鳥取県知事の英断に倣い、この際NHKも政治家との接触をすべて記録に残し、国民に公表する制度を作るよう勧めたい。

 特定の政治家に対するご説明によって国会の審査を潜り抜けようとしたNHKの行為は、受信料を払っている一般視聴者に対する背信である。小ざかしい国会対策に血道をあげることによって、NHKは公共放送たることを自ら放棄している。

 繰り返す。国民の醵金によって運営されることは公共放送と同義ではない。開かれた姿勢こそ公共放送の本質である。

(この項続く)

[以上、転載終わり]
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by at923ky | 2005-02-06 09:59 | コラムエッセイ

たかがブランド、されどブランド…

[ 本稿も、「「日本病の病根はどこまで深い」同様、BSE問題に多少、関連するので同時に掲載しておく。既にメルマガにて公表済みである。 (05/02/05 記) ]

 今、雪印ブランドが揺れている。
 雪印の牛乳とかアイスクリームって、美味しいから、結構、好きで飲んだり食べたりしていたのに。それにしてもオーストラリア製の牛肉を国産に偽るとか、北海道産の肉を九州産に偽るとか、製造日も好き放題に変えるとか、これじゃ、消費者はたまったもんじゃない。
 けれど、これって食品産業を統括する農水省や厚労省の落ち度もあるだろうと思われる。狂牛病の懸念のある国産の肉を国が買い取る制度を作った際も、国内産の証明などの手続きを相当に緩和したことが、食品メーカーの不正の引き鉄になって
いるわけで、見かたに寄れば、不正が暗黙の了解のうちに誘発されていたということも不可能じゃない。
 製造日も、食品メーカーの自主性とモラルに任されている。ってことは、安易に不実記載が可能だってことだ。
[この事件が発覚するタイミングって、政治の現実から一般の目を逸らせるためだったのだろうか。道路公団が廃止・延期を決めていた幾つかの工事が、一部の圧力で覆されたり、あるいはマイカルとは打って変わったダイエーの再建策とかへの批判や関心をかわすためってことはないよね。こういうのって、プロの政治家の得意技だから…]

 ところで、過日の新聞にも出ていたし、テレビでも報道されるから周知の事実かもしれないが、魚沼産のコシヒカリが、これまた、ブランド信仰の犠牲というか、的になっている。
 魚沼産で実際に生産されるコシヒカリより、市場で流通している魚沼産コシヒカリが20倍あるって、不思議な話だ。
 お米など、コシヒカリだったら、大概の人には味は見分けられないようだ。まして、魚沼産のコシヒカリに他所で作られた無印のコシヒカリを少々混ぜたって、判別など、不可能ってことだろう。
 それどころか、本当に魚沼産のコシヒカリが1%でも、混入されているのか、疑わしい可能性もある。
 けれど、誰も、農水省の連中は問題にしない。それは当たり前の現実だからか。それとも、大人なら誰でも知ってる常識で、問題にするほうがおかしいってことか。
 考えてみると、お米は、食べても、その味を見分けるのは至難のわざのようだ。むしろ、炊き方の差のほうが味への影響が大きいようだし。

 昨年か一昨年だったか、あるお酒の銘柄についての不正の摘発があった。誰もが知っており、お酒好きなら一度は飲みたいという銘酒の大吟醸を、ネット(通販)で売り出された。買い手は千人以上あったらしい。無論、安い値段じゃない。
 が、実は、実際に通販で買った人の手には無名の安い酒が送られたのだ。
 ところが、その事実に気付いた人は、ほんの僅かだったという。何だか、笑っちゃうような話だ。一升瓶で千円するかしないかの酒を大吟醸の銘酒だと偽られて送りつけられて、それを、「さすが、この大吟醸は味が違う」とか言って、したり顔で飲んでいるのだ。きっと、近くには、その方が地元で買った安い酒も並んでいるんだろうな。
 要は箱とか、包装とか、ラベルとかに騙されるってことだ。
 ということは、奥さん方が旦那さんの代わりに、これ、高い酒よって買ってきてあげればいいんだ。ラベルは、高い奴のを貼り替えてもらって。それを飲んでも違うって気付く呑み助は、ほとんどいないんだから、安く買った分だけ、家計が助かるだろう。

 そういえば、水についても、テレビで実験していた。水道の水と、ミネラルウオーターとか、ボトル入りの銘柄の付いた水とを飲み比べていた。
 すると、その違いを分かる人は、ほとんどいなかった。
 つまり、水道の水でも、ボトル入りの水を飲むときと同じように、北アルプスの天然水だというラベルを貼ったボトルに入れ、適温に冷やして、ちゃんとした洒落たグラスに注いで飲めば、もう、十分、満足するってわけである。
 味のわかる人間というのは、いないことはないだろうけど、めったにいない。味だって、運動神経なんだから、鈍った体の人間の鈍った舌では、見掛け上の誤魔化しを見抜くのは、至難ってことかも。

 勘違いしてほしくないのは、だからといって、ラベルを貼り替えろとか、ブランド信仰などナンセンスだと主張しているわけではないことだ。
 ただ、本当に自分の目と舌で確かめて、それで自分が満足なら、それでいいってことだ。それ以上の何を言えようか。
 ハンドバッグにしても、ブランドに関係なく、いいものはいいんじゃないか。
 それをブランドの銘の入ったバッグでないと、信用の置ける美麗な店で買ったのでないと、オシャレじゃないと思うってのは、自分の価値観にまるで自信がないっていう証拠のようなものだ。

 そうはいっても、学歴も含め、一見して分かる<客観的尺度>って奴が、一人歩きしているように思えてならない。本物志向といいつつ、実際には、モノの上に貼られたラベルでしか、識別は出来ないという傾向が、ますます強まっている。あまりに様々な人や物が蠢く社会だから、その中から本物を(何が本物かは各自が決めるとして)見分けるのは、紛い物を見分けるってのは、ますます困難になってきていることも現実なのだ。
 ブランド信仰なんてナンセンス! と、軽々には断言できないところが、混沌を極める現代の難しいところなのかもしれない。


                                    (02/02/04)
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by at923ky | 2005-02-05 15:02 | コラムエッセイ

日本病の病根はどこまで深い

[「日本で初の人間BSE患者発生 50代男性死亡」というニュースが昨日、日本中を駆け巡った。以下、各誌の関連情報をピックアップしておくと:

BSE(牛海綿状脳症)が原因とされる「変異型クロイツフェルト・ヤコブ病」(vCJD)の症例が、日本で初めて確認された(各紙)。【今回の事態が、国内の牛肉消費や米国牛肉の輸入再開問題に影響を及ぼす可能性も出ている】(朝日)

 感染が確認されたのは昨年12月に51歳で死亡した男性で、【男性は89年ごろ、英国に約1カ月の渡航歴があり、厚労省は英国で感染した可能性が高いとみている】(毎日)

 たった1カ月の滞在で感染するのかという疑問もあるが、【それでも同委員会(注・厚生科学審議会クロイツフェルト・ヤコブ病等委員会)が英国滞在を理由とするのは、当時の英国でBSEが猛威をふるっていたからだ】(朝日)という。ただし、【この患者が日本で感染した可能性も、同委員会の関係者は「完全には否定できない」としている】(同)

8日に米国産牛肉の輸入再開についての日米専門家会議が開かれる予定だが、【BSE発生を理由に輸入を停止した米国産牛肉の輸入再開の行方が不透明になってきた】と『読売』は書いている。

 【農林水産、厚生労働省の両省は、BSEの全頭検査緩和など国内対策や米国産牛肉の輸入再開交渉を既定方針通りに進め、可否の判断は、内閣府食品安全委員会の科学的な判断に委ねる方針だ】と『産経』は伝えているが、、『毎日』は【夏前にも見込まれていた米国産牛肉の輸入再開も、秋口以降にずれ込みそうだ】と指摘する。
(転記終わり)
 そこで小生がBSE問題がマスコミなどを賑わせていた頃に書いた関連コラムをここに転記する。既にメルマガにて公表済みである。 (05/02/05 記)]

 4月9日付け朝日新聞朝刊の「ポリティカにっぽん」に、同社コラムニストの早野透氏による「BSEから日本病が見える」という一文が掲載されていた。
 かのBSE問題で、大臣の諮問機関である「BSE問題に関する調査検討委員会」が2日発表した報告は「重大な失政だった」と断じたことは、最早周知のことであろう。
 イギリスで猛威を振るったBSEの侵入を他国は防げたのに、何故、日本は防げなかったのか。結局のところ、日本ではおざなりに通達だけですませてしまい、結果として海外の教訓や警告を何ら生かせなかった。そしてその穏便なる日本の対応というのは、事を荒立てると牛肉が売れなくなるからという極めて情ない理由から決定されていたというのだ。
 報告書では「旧態依然たる食糧難時代の生産者優先・消費者保護軽視の体質」と続いている。厚生労働省も独自に海外情報を入手しており、農水省への勧告をすべき立場にありながら、縦割り行政の弊害をあからさまに示すだけに終わり、やはり結果として何の役割も果たすことはなかった。
 要は政官業の癒着の構造が諸悪の根源なのだというのだ。狂牛病問題でも農林関係の族議員が農水省の政策の決定過程に過度に介入し、農水省と族議員そして業界の共犯の中で狂牛病問題は、こんなにまで拡大したわけである。
 日本の農水省は、国内の農業・漁業・林業を、徹底して破壊してきた。選挙のための保護には血眼になるが、食糧安保に関わる根幹において、これ以上は考えられないほどに国家を荒廃させたのである。これには補助金などに縋る農業関係者の責任も重いはずである。
 が、何よりも、このコラムの中で軽く触れるだけで通過しているマスコミの責任は、あまりに追及されないのが、歯がゆい。コラムの中で早野氏は、「センセーショナルで集中豪雨的な」報道の半面、「食の安全」の専門家に乏しく欧米の対応の報道も不十分だったという報告が耳に痛いと述べるに止まっている。
 その後、コラムでは、さっさと論点を移していく。これだけ問題が山積しているのに、政界は、横浜市長選も京都府知事選をみても、与野党が相乗りするばかりで、これでは国民は???であると続けている。
 第三の権力と呼ばれるマスコミの責任は、実は、政官業の責任と同等か、それ以上に重いのではないかと小生は考える。政官業は、いわば、利害当事者で一般消費者より自分たちの既得権を守るのに汲々とするのは、よくはないが分かりきった構図なのである。
 それに比して利害当事者でないはずのマスコミは、肝心なときは(海外で警告を発せられている云々の情報が発信されているときなど。そしてその情報を受けた農水省の対応の鈍さ)は、ほとんど扱いをなきに均しくし、結果としてことが騒ぎになると、農水省の対応が拙かった、大臣の判断は間違っていた、そして全国の狂牛病パニックを騒ぎ立て煽り立てるばかりだったのだ。
 田中金脈問題で立花氏がマスコミを通じて、追究を始めたとき、そんな事実など、わが大マスコミ(新聞)では誰もが知っている問題だよと鼻でせせら笑っていた。
 何だ、知っているなら、ちゃんと報道すべきじゃなかったのか。
 でも、実際には大マスコミは政官業の癒着の構造の中にベッタリと組み込まれていて、それを怪しむでもないのだ。
 かの長野県知事の田中康夫氏が「脱記者クラブ」宣言をしたときも、大マスコミは田中知事に怒るだけで、反省の欠片もないのだった。もう、政府や業界の広報担当という既得権たっぷりの役割に全く慣れ親しんでしまって、そのことの意味する腐敗の構造に見向きもしなければ、気づきもしない…。
 個人情報保護法案が今、問題になっている。実質的にこの法案でいう「個人」とは、政治家や官僚を意味していて、彼らをマスコミの取材攻勢からいかに守るかに苦心している。ところが、その際、大マスコミはちゃんと一定の取材の可能性は確保されている。保護されるわけである。
 つまりは、大マスコミには、もう、政府や官僚を追及する姿勢がないということを政官業の関係者は見切っていることを、裏書しているのである。
 政官業と大マスコミの癒着の中で、時代はさらに閉塞状況を露にしていくのだろう。日本病の病根は、底知れないほどに深いのである。


                                        (02/04/09)
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by at923ky | 2005-02-05 14:45 | コラムエッセイ