随筆日記の表題を選ぶのに、いつもながら、迷う。
冒頭に木曜日の朝、仕事が終わって会社の車庫に戻り、納金などの雑務を済ませて、さて、帰ろうかと思ったら、車庫のあるビルの脇に咲いている花が目に付いた。 野暮天の小生には花の名前など、分からない。そこには、何種類かの花が咲いている。例えば、黄色の小さな花…、恐らくは菊の仲間だろうとは思えるのだが。 雑草というわけではなさそうだ。かといって、誰かが丹精篭めて世話していると思えるような場所でもない。通りすがりの誰かが、ゴミなど捨てそうな、何気ない場所。 花にとって、雑草など、花の咲かない植物にとって、地上の世界とは一体、何なのだろう。たまさかの仮の宿なのだろうか。花は、寒くなってきた今も、恐らくは一晩中、咲きつづけている。葉っぱも、枯れ葉だとか紅葉などとは無縁だとばかりに緑色の光沢が鮮やかである。時間帯によっては、直射日光だって容赦なく浴びる場所。 路傍の植物達が、とにもかくにも地上世界に顔を出した場所が、仮の宿だろうが、花粉か何かでもっと他の場所へ移っていくことを希(こいねが)っているのだとしても、いずれにしても、今、ここで咲いている、緑の葉を誇らしげに揃えている、この今の場所を終の棲家とするしかない。 ということで、今日の表題は、「仮の宿」とすることにした。 「仮の宿」は、季語でも何でもない。 ただ、これが「狩の宿」なら、冬、それも12月の季語のようである。文字通り、狩りをするための宿で、昔なら、山間の粗末な(?)小屋だったりしたのだろうが、今なら、旅館かホテルか、とにかく立派な宿舎なのだろう。 いずれにしても、「狩の宿」は、今の我々には馴染みが薄い。あるいは、全くない。 が、「仮の宿」となると、話は別だろう。 今のマンションや頑丈そうな家に住まれる方であっても、どこか、日本人の多くは仮の宿という感覚があるのではなかろうか。 続きがあるよ 「季題【季語】紹介 【10月の季題(季語)一例】」に載る季語(季題)の例の数々を見ていて、前々から気になる季語があった。
それが、表題にある「通草」である。 小生、この言葉が読めない。 一瞬、目にした時は、「道草(みちくさ)」かと思った。道草を俳諧の世界では風流にこう表記するのか、うん、「みちくさ」なら、何か書けるかもしれない…、小学校の時、行く当てもなくてなんとなくブラブラして時間をつぶしていたことがあった…ような記憶があるし…、大学生の頃、まあ、いい年をして道草でもないだろうけど、学校からの帰り道、下宿への道を一時間半掛けて歩いて帰ったことが何度となくあった…そのときのことを少し、書いてみるのもいいかな…。 ま、そんな思惑もあった(それどころか、場合によっては、久しぶりに「道草」を題名に、あるいはテーマに掌編を綴ってみるのもいいかも、なんて色気さえ抱いていたり)。 さて、「通草 季語」でネット検索して、びっくり。 「通草」って、「あけび」と読むのだ! 「E & C 「花通草」」によると、「通草と記して「あけび」と呼ぶ。秋、艶ややに熟した実をつけるので秋の季語とされるが花は春に咲く」とあるではないか。思わず、「あけびーー」と叫びたくなる気分だ。 この先が本題なんだってば! 過日、【10月の季題(季語)一例】に「葡萄」という季語が見出されたので、表題(テーマ)として採り上げるつもりで書き出したのはいいが、「万葉の恋は孤悲とも鳥渡る」なる句が目に飛び込んできたばっかりに、話が大きく逸れてしまった。
そう、この句の中の、「恋」が「孤悲」と万葉集の中では表記されていることを知り、その辺りのことを調べてみたくなってしまったのだ。 今日こそは、「葡萄」に焦点を合わせていくつもりである。 さて、ネット検索して分かることは、敢えて季語としての葡萄について説明しているサイトは少ないということ。何ゆえ、葡萄が秋の季語なのか。葡萄狩りという季語乃至はそういった行楽が秋ともなると行われる。 それは今のわれわれにも慣れ親しんだ光景であり話題の種である、ということか。 その意味で、「葡萄」が秋の季語だと、今更ながらに説明するのも野暮なのかもしれない。 これから先が本文なんだよ!
「俳句ステーション」さんサイトの「【10月の季題(季語)一例】」を例によって取り留めなく眺めている。
「10月は季題が一年の中で一番少ないよう」だというけれど、それでも季語随筆の表題(テーマ)として選ぶとなると、迷う。 どの季語(季題)も歴史があり、古今の多くの方たちの思い入れがあり、また実際に詠み込まれてきたのだろうし。 と、なぜということもなく、今日は、いかにも地味そうな「稲架」に目が留まった。隣の「稲刈」でも良さそうなものだが、もう、その時期は郷里(富山の平野部)ではさすがに過ぎている。 新米も、まあ、食べるだけは食べて、古米にまた戻っていたりする。 「稲架」は「はざ」あるいは「はさ」、または「いなか」などと読まれ、「稲架掛 稲架組む 稲積 稲塚 稲干す」などの類語・関連語があるようである。 意味というのは、ほとんど文字通りで、「刈取った稲を掛けわたし乾燥させる為の木組み」というもの。刈り取った稲から籾を取るには、脱穀という作業を経る必要があるが、刈り取ったばかりの稲は湿っぽく、すぐには脱穀の作業に取り掛かるには難がある。 「優嵐歳時記」の「掛稲」を覗くと、まさにこれが「稲架(はざ)」だという画像を見ることができる(「掛稲(かけいね)」と読む)。 文中、「姫路あたりでは木組みに一本の竹などを横渡しにして稲を掛けますが、場所によっては何段にも積み重ねるところもあ」るとしているが、小生が郷里に居住していた頃は、竹ではなくて「まるたんぼう」(角材ではなく丸い形の数メートルの木の棒切れ)を横渡しにし三段から五段くらい積み重ねるようにして稲を架けていたような記憶がある。 つまり、上掲の「稲架(はざ)」の画像よりは高かったはずなのである。 ここまで来たら、続きを読んでほしいな
季語表を眺めていたら、「秋扇」という(小生には)不思議な季語のあることに気づく。
読みは、「あきあふぎ」、あるいは「あきおうぎ」。 何も今日になって、いきなり気づいたわけではない。なんとなく、分かりやすそうであり、それでいてとっつきにくい感もあったりして、採り上げるのを先延ばしにしていた。 早速、ネット検索。 「水中散歩」さんサイトの「秋扇」なる頁に、「夏が去るころ。不要となってくるものがあります。それが、扇子。 扇で風を送る必要もなくなってくる時期を、「秋扇」と表現するのですが」といった一文を見出した。 さらに「谺(2005・09)」の、「小林康治『虚実』の世界Ⅰ……山本一歩」を覗かせてもらう。 「秋扇故なく老いてしまひけり」という句が示され、そこに鑑賞が施されている。 ![]() →星の待受画面HP つい、勝手に転記したくなる: 「秋扇」の淋しさは「老」の淋しさであった。別に何か理由があって秋扇になった訳ではない。季節が移り変われば自然に扇は秋扇になる。人間もまたその通り。人間が老いるについて理由などないのだ。毎日毎日を必死に生きようと、だらだら過ごそうとみな平等に老いる。そしてその結果が今この句を詠んでいる小林康治なのであった。 なるほど、段々とイメージが形を成してきた…ような。 続きがあるよ < 前のページ次のページ >
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