カテゴリ:哲学エッセイ( 4 )

人間を定義する(続)

 前稿は、「あれこれ、人間の定義の事例を提示してきて、やっと、最初の話に戻る。実のところ、他にも有名乃至は重要な定義があると思われるが、もう、今日は疲れた。またの機会があったら、触れてみたい。」と、なんだか、中途半端な形で終わっている。
 これを尻切れトンボというのだろう。
 実は、この稿を書いていて、途中で何だか意気消沈してしまったのである。最初のうちは、少しはあったパワーが、高かったテンションが、末尾に近付くにしたがって、一気に電池切れしてしまった。
 その理由は、まあ、人間の定義にはいろいろあり、枚挙するのも容易ではないということもあるし、では、自分なりの定義を仮説の形であれ提案できるのかというと、それはちょっと能を越えていて、自分には無理難題である、己の能の乏しさに愕然とするものがあるという理由もなくはない。
 が、少なくとも後者は今になって分かったことではない。だから、愕然とするなんてのは、嘘がある。
 実は、寺田寅彦が、「喫煙四十年」というエッセイで示した、「しかし人間は煙草以外にもいろいろの煙を作る動物であって、これが他のあらゆる動物と人間とを区別する目標になる。そうして人間の生活程度が高ければ高いほどよけいに煙を製造する」という下り、その焦点は、「煙を作る動物」にあるのであり、なるほど、人間は、煙を作る動物だと、言われてみると、その通りだと、ちーとばかり寺田寅彦の卓見に感心し感激したものだった。

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by at923ky | 2005-09-12 08:54 | 哲学エッセイ

人間を定義する

 読書の秋だという。小生も一端の読書家を気取ってみたくなり、埃を被っていた「寺田寅彦随筆集」を引っ張り出して、徒然なる侭に頁を捲ってみた。
 と、いきなりというわけではないが、興味を惹く一節に突き当たった。
 というより、寺田寅彦の随筆は、何を読んでも興味津々となってしまうのだが、その中でも一際、面白く感じられた一説だったのである。
 それは、「しかし人間は煙草以外にもいろいろの煙を作る動物であって、これが他のあらゆる動物と人間とを区別する目標になる。そうして人間の生活程度が高ければ高いほどよけいに煙を製造する」という下りである。
 別に、寺田寅彦が、この「喫煙四十年」というエッセイで、正面切って、人間の定義を為しているというわけではない。淡々とした記述の、ほんの一齣に過ぎないのである。そんな下りが随所どころか、どこの頁を捲っても見出されるから、彼の本は手放せないのである。
 念のため、参考のため、上掲のエッセイはネットでも読めるので、どうぞ:
喫煙四十年

 さて、せっかくなので、人間の定義にはどんな物があるか、幾つか思いつくままに枚挙してみたい。

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by at923ky | 2005-09-12 08:45 | 哲学エッセイ

神秘体験というよりも

 他の場所で、柳澤桂子氏の神秘体験にちなみ、小生自身の神秘体験について若干、触れてみた:

 ある朝、トイレの帰りだったか、玄関のドアを開いて、何の気なしに庭を眺めた。まだ庭の隅には屋根から落ちて堆積した雪の名残が見受けられた。
 何故か、庭を眺めつづけていた。すると、突然、何か炎のようなものが庭に燃え上がった。赤というより真っ白に近いような眩しい光の渦だった。それが庭で渦巻いたかと思うと、次の瞬間、その炎はある文字の形を描いた。
 その文字とは、「神」だった。

「神」という光り輝く漢字が、ほんの一瞬、それこそ閃光の如く描かれ、そしてあっという間もなく消え去った。
 気がつくと、そこにある庭はいつもの見慣れた庭で、何の痕跡もなかった。自分の幻覚か、それこそ夢なのかもしれなかった。我が目を疑うしかなかった。
 けれど、脳裏に刻み込まれた炎か光で描かれた「神」という文字だけは、それから長く<印象>となって残りつづけた。三十年以上も経った今でも、さすがに当時ほど鮮やかではないが、目を閉じるとその活字像が現れる。

                               (引用終わり)

 尚、柳澤氏の神秘体験は、柳澤桂子著『生命の不思議』(集英社文庫刊)や、下記のサイトなどで知ることができる:

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by at923ky | 2005-07-04 22:23 | 哲学エッセイ

パンタ・レイと諸行無常との間

 パンタ・レイと聞いて、すぐ分かる人は少なからずいるのではなかろうか。古代ギリシャの哲人・ヘラクレイトスの言葉である。
 ヘラクレイトスは古代ギリシャの哲学者の中でも人気があるほうなのではなかろうか。別に人気ランキングで調べてみたわけではないけれど、アナクシメネスやデモクリトスやターレス、パルメニデス、アナクシマンドロス、エンペドクレスらと並べると、やはり断然、ヘラクレイトスの名が筆頭のような気がする。
 但し、あくまで人気度である。哲学思想や思想史の上での重要度ではない。
 そうしたものを加味したなら、プラトンやソクラテスあるいはアリストテレスは別格として、ソクラテス以前の哲学者の中では、ターレスを挙げる人もいるかもしれない。水の哲学のターレスなのだ。あるいはピタゴラスの名を挙げる人もいるかもしれない。幾何学の哲学、神秘の数のピタゴラス。
 でも、小生の学生時代以来の愛読書・山本光雄訳編の『初期ギリシャ哲学者断片集』の中でも、ヘラクレイトスの箴言めいた言葉の数々は、瞑想に耽らせるに十分な雰囲気を漂わせているし、ご本人の変人振りでは際立っている。
 ヘラクレイトスについて簡単なエッセイを書き進める前に、彼のことを知らない方のために多少は紹介しておくべきだろう。が、小生の拙い紹介よりこのサイトを参照願いたい。
 ところで、今、紹介したサイトにもあるように、「ヘラクレイトス(Parmenides, B.C. 6-5C.生没年不詳)は、今も述べましたように現在のトルコが位置する小アジアのエフェソスで生活しました」という。
 ギリシャの地ではないのだ。エフェソスというのは、知っていたが、小生はてっきりギリシャの何処かだろうと思い込んでいた。迂闊である。
 さて、彼は、「暗い人」とか「泣く哲学者」と呼ばれている。
 思想が深く、凡人には窺い知れない内容だということもあるし、ペシミスティックな世界観があ
り、こんな悲惨な世界に生きる人々が可哀想だと泣くのだと言うのだ。
 なんだか、余計なお世話で、滑稽でもある。
 こんな人がもし、現代にもいるとしたら、きっとホームレスの方と見分けがつかないのではなかろうか。世の常識人と相和すわけがない。綺麗な街中のどこに生きる場所を見出せるだろうか。
 おっと、大学という恰好の場所を忘れていた。そんな人がキャンパスには多いんだろうな。
 その彼は、「ミレトス学派の伝統を引き継いで、万物の根源を火とし、その火から万物が生じたと考え」たという。そもそも、古代ギリシャの哲人は、浮かれたように万物の根源を探求した。探し回った挙げ句、水だ、火だ、数だと言い張ったのである。
 そう、ヘラクレイトスは万物の根源を火だとしたのだ。そして、「絶え間ない変化を見せるこの世界こそ真の世界の姿であり、「万物は流転する」(パンタ・レイ)」と主張するに至ったのだ。
 あるいは、「彼は万物のこのような変化を川の流れにたとえて、「君は、同じ川に二度入ることはできない」とも言っています。(略) なぜなら私が二度目に川の流れに浸ったときには、川の流れも私自身も既に変わっているから」とも言う。
 が、彼の思想が深いとされるのは、「ヘラクレイトスは、さまざまに姿を変えるこの自然の変化をてんでばらばらに変化する無秩序な変化とは考えませんでした。彼は、この変化は、様々なものの対立によって起こっていますが、この対立によってこそ逆に万物は調和を保っているのだと考えてい」た点にある。
 万物が流転するにも関わらず、自然の変化が無秩序なものではなく、むしろ、「様々なものの対立によってこそ逆に万物は調和を保っているのだと」考えるから、彼は哲人なのである。
 この分かりにくい点の説明は、同サイトにある。「万物の対立は、「弓やリュラ琴のそれのような、逆に向き合った調和」と言われているように、ギターの弦のように、相反する方向に振れながら、それでも全体として一つの調和を保っている」、と。
 そして、「ヘラクレイトスは、このような対立によって万物に調和が保たれる仕組みを神ともロゴス」とも言う。
 まさに、ここから哲学が始まっているのだ。万物が流転するという洞察だけなら、かなり卑近な程度だとしても、小生にだって洞察できるかもしれない。が、そこで終わってしまうのが凡人・俗人の悲しいところである。
 ヘラクレイトスは、自然に生きよというが、それは、「私たち人間もこの世界の一部ですから、対立の中に調和を保つ世界のロゴスに従って生活するしかない」という認識を持つということを意味する。それがなかなかできないから哲人になりきれず、俗人のままなのだ。
 ところで、このサイトにもあるが、この透徹した厳しい哲学を示されているにも関わらず、後段では、「以上のような考え方というか人生観は、日本人には馴染みやすいものでしょう。「すべては流れ去る」という考えは、まさに仏教の「諸行無常」ということであり、自然のロゴスに従がう生活は、老子の「無為自然」、あるいは松尾芭蕉の「造化にしたがひ、造化にかへる」(笈の小文)の思想に通じるものがあるのではないでしょうか。」と続く。
 一体、何を読んできたというのか。
 ヘラクレイトスの「パンタ・レイ=万物は流転する」の思想と、仏教の「諸行無常」や老子の「無為自然」、あるいは芭蕉の人生観・自然観とは、実は似て非なるものなのではないか。そこを認識しているからヘラクレイトスは哲人なのである。
 もう一度、確認しよう、万物は流転するという思想と、「諸行無常」や「無為自然」と通底すると言えるのだろうか。
 どうやら、ヘラクレイトスが、言う、ロゴスに鍵がありそうである。
 ロゴスというのは、「言葉」や「法則」や「論理」などを意味する。いかにもギリシャ哲学を象徴する、ある意味で根底的な心棒のような概念である。
 そのロゴスに対立する概念に「カオス」がある。通常、「混沌」というふうに訳される。そう、ヘラクレイトスは、この世の根源を万物の流転と洞察しつつ、同時に、対立の中に調和を保つところのロゴスが支配していると認識しているのだ。そのロゴスに従って生きよと彼は言い放っているのである。
 一方、敢えて東洋的な観念である、「諸行無常」や「無為自然」を性格付けるなら、それはカオス的ということになるのではないか。この世は不可思議で理解不能で、まさに混沌の闇に没しているのだというやや情緒的な認識なのではないかと思われる。
 が、ヘラクレイトスは、万物は流転すると言いながら、その根底にロゴスを置く。ロゴスを見極めている。そのロゴスに従えと言う。ロゴスに従うことが自然に従って生きること、自然に生きることなのである。
 さて、しかし、ロゴスに従って生きるとしても、そのロゴスが、この場合、万物は流転するであり、万物の根源は火のように変転極まりなきものであるとしたら、やはり詰まるところ、「諸行無常」や「無為自然」と何処が違うと言うのか。似たり寄ったりではないのか。
 しかし、やはり違う。ロゴスというのは、論理であり言葉であり、法則である。法則というのは、厳格なものであって、その都度、違うルールがあるというわけではない。だったら、法則とは言わない。法則である以上、常にその法則の縛りが効いている。
 また、そこには言葉であり論理である以上は、明晰な理解が為され得るのだという認識も含まれる。決して混沌たる闇ではないのだ。戦いがあると思えば平和がある。その両者があるという。この世が戦いのみに終始するなら、もう、この世を見限ってしまえばいいが、そうはいかない。平和だってありえる。戦争と見合うほどに。
 絶えず川は流れるが、その流れの中に変わらないものもありえる。何かの法則も潜んでいる。単に、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず」(『方丈記』)と見切るだけでは済まない。それだけだというなら、世捨て人になれば済むことなのだ。この世を睥睨するか斜視するか、侮蔑するか、いずれにしても、この世の混沌の中に秩序を求めようとか平和を実現しようとか法則を見極めようなどはしない。する意味がない。
[『方丈記』(鴨 長明)はここで読める。]
 が、ロゴスが支配し、しかもそれが「対立の中に調和を保つ世界」なのだとしたら、今、眼前に戦争があるとしたら平和の可能性を追求しろということになりえるし、川の水が流れて止まないとしても、だから全てが流れ行くままだ、と、あとは知らん顔、という怠惰は許さない。その流れて止まない中になにかの法則性を探求しなければ、ロゴスを貫徹したことに、ロゴスに従ったことにならないからだ。
 ギリシャの哲学の示す厳しさ。それは論理的ということだろう。あるいは論理や法則性への渇望、貪欲さである。感情に堕すことを許さない厳しさがある。だから哲学の名に値する。繰り返すが、ヘラクレイトスの万物は流転するという思想と、東洋の「諸行無常」や「無為自然」とは似て非なるものなのである。決して、諦めの哲学でも癒しの思想でもないのだ。
 尤も、だからといって、どちらがどうだというわけではないのだが。



                                      (03/04/14)
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by at923ky | 2005-03-04 10:58 | 哲学エッセイ