カテゴリ:古代・歴史・考古学( 4 )

三途の川と賽の河原と

 前回に引き続き、「さいたま川の博物館」での、「平成11年度第2回特別展「三途の川」」を道案内に、三途の川のこと、そしてできれば、賽の河原について幾分かでも学んでおきたい。
 こんなことを学んでどうなるというのか、どんな意味があるのか、少なくとも小生にはさっぱり分からないのだが、何故か惹かれるものがあるので(そろそろ呼ばれている?)、ひたすらに好奇心に駆られるままに、かといって、あまりに深入りして、それでは、自分で訪ねてみようとばかりに、往って(逝って)還らぬ人にならぬよう、浅瀬を選び、できれば、三途の川の中に足を浸さないだけではなく、飛沫さえ浴びないように、用心を重ね、不摂生なる日頃の生活をほんの少しは慎みながら、まあ、表面的なこと、触りのところだけを、無論、差し障りに至らぬ程度に、触れてみよう。
 さて、「平成11年度第2回特別展「三途の川」のご案内」を参照する:

 いきなり人の力を借りるのも、顰蹙モノかもしれないが、三途の川に行ったことがないのだし、その世界に不案内なのだから、仕方ない。上掲の頁の冒頭にかのようにある:
 日本人は、むかしからこの世とあの世を分ける境界として川を意識してきました。その川が日本仏教に取り込まれ「三途の川」になったと考えられます。

 確かにその通りで、宗教の世界には御無沙汰気味の小生も、そんな話を漏れ聞いたことが遠い昔の記憶として残っている。一体、誰に聞いたものなのか、今となっては定かではない。

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by at923ky | 2005-07-29 22:14 | 古代・歴史・考古学

三途の川のこと

 あるサイトの掲示板で、千葉県には、三途の川という名の川があるという書き込みを見つけた。まさか、という気持ちと、でも、あっても可笑しくはないという気持ちとが相半ばしていたが、とりあえず、ネット検索。キーワードは、勿論、「千葉県 三途の川」である。
 すると、検索結果リストの筆頭に、「特別展点描  発見!「三途の川」」という表題のサイトが登場するではないか:

 その冒頭には、「さいたま川の博物館では、今年度第2回の特別展「日本人の他界観を探る-三途の川-」を開催しましす。」とある。
 続いて、「「三途の川」は、皆さんも知ってると思いますが、人が死んでからあの世に行くときに、必ず渡らなければならないとされた想像上の川です。しかし、特別展の開催を準備していた私は、ふと、「三途の川」という川は、実際にこの日本にあるのだろうかという素朴な疑問がわきました」とあるではないか。小生と同じような疑問を持たれる方がいらっしゃるわけだ。

 尤も、その方は、「早速、博物館にある『河川大辞典』をペラペラめくってみると、あったあった、全国に3ヶ所ありました」というわけで、小生とは比較にならない好環境に身を置いておられる。羨ましい限りである。
 とは言っても、小生がその立場にあって、ちゃんと辞典などを調べるかというと、これは怪しい。せめて辞典を枕に居眠りしないで居られれば、御の字なのだろう。

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by at923ky | 2005-07-23 23:14 | 古代・歴史・考古学

ジャパンのこと

 英語で「japan」を翻訳すると、日本もあるのかもしれないが、むしろ、「漆器」と訳されるようである。
 というか、遠い昔、授業でか、「japan」にそんな意味のあることを仄聞したような気がするが、あまり深く考えることもなく記憶の沼の底に沈んでいってしまった。
 その後も、陶磁器や土器などの話になると、漆器にも話が及び、場合によっては、「japan」は「漆器」を意味(あるいは、その逆)のだという知識に触れていたはずである。
 さて、昨夜、仕事中、ラジオで改めて、漆器の話を聞くことができたので、せっかくのことでもあり、勉強を兼ねて、自分のためのメモとして、ここに大雑把なことだけでも綴っておきたい。
「japan」は「漆器」として、「china」は「磁器」を意味することも、知る人は多いだろう。
「磁器」は、豊臣秀吉による文禄・慶長の役の際、朝鮮出兵をした大名の多くは、優秀な朝鮮の陶工を連れ帰った。その結果、日本に磁器の製法の技術が導入され定着していったわけである。その意味で、江戸時代以前に関しては、土器はともかく磁器は、中国を意味するしかなかったわけであろう。
 このことも、常識に属することなのだろうし、ここではあまり触れない:
有田焼について
磁  器

 日本という国名は、『日本書紀』の編纂が養老5年(720年)ということでも分かるように、その頃には自称していたものと思われる(実際には七世紀だろうが)。
 問題は、その「読み」がいかなるものだったか、である。
 我が国の人たちが、読んでいた読方もあるのだろうが(ここでは略す)、海外での呼び方(読み方)となると、別儀で、やはり、中国人がどう日本を表記し、呼称するかに依存していると思うしかない。
 古代などの中国人の日本を呼ぶ言葉の発音の正確なところは分からないが(知らないが)、広くヨーロッパに興味を惹いた、ということになると、マルコ・ポーロの紹介の仕方を参考にするのがいいのだろう。
 恐らくは、マルコ・ポーロは中国に来て、日本の文化などの存在や性格を知り、その黄金伝説をも伝えたのだろう。『東方見聞録』では、金閣寺などを見て(聞いて)、日本を「黄金の国」と伝えたようである。
 その際、日本を「ジパング」と呼称したようだが、その「ジパング」に「黄金の国」という意味合いがあるのか、それとも、日本=ジパング=黄金の国ということで、「ジパング」に「黄金の国」という意味合いが含意されていったのかは、小生は知らない。
《 東方見聞録に書かれていること》〈日本はどう紹介されているのか〉

 さて、大航海時代、マルコ・ポーロらにより、日本という国の存在がヨーロッパに気になる存在として印象付けられたのだが、その際、黄金伝説が間に受けられたのなら、「ジパング」=「黄金の国」という意味合いとなったはずである。
 が、実際には、そうではない。

 先に進む前に、「ウィークリーふりーえむえる」の、「諸説・ジャパンの由来」というサイトが面白い(中身の信憑性などは読者が判断して欲しい)。

 いずれにしても、「中国語の「日本」(「ジーベン」か「リーベン」と聞こえます)が由来と聞いています。 これがマルコポーロによって「ジパング」と伝えられ、英語の「ジャパン」、仏語の「ジャポン」になった」と理解しておくのが穏当なのだろう。
「《 東方見聞録に書かれていること》〈日本はどう紹介されているのか〉」にもあるように、日本は、黄金の国であり、真珠が多量に産出される国であり、胡椒以外にも貴重な香木の産する国であるとして、紹介されている。
 さて、日本(ジャパン)が、何故、「漆器」を意味するようになったのか。
 問題は、どうやら、黄金の国としてジャパンを紹介した際、マルコ・ポーロが、どういう場面で使用されている黄金を見たのか(知ったのか)に懸かっている。
 まさに「金(きん)」の意味での黄金と考えるのが筋なのかもしれないが、異説を唱える人もいる。海外の、それぞれの国の産物の特徴を見極める目に長けたマルコ・ポーロは、単なる「金(きん)」に目が眩んだと思うのは、単純すぎる。
 金(きん)だったら、日本にも豊富かもしれないが、中南米の黄金の量には比べられるはずもない。そちらでは、金箔ではなく、まさに金の塊が巨大建造物にも惜しみなく使われていたのだ。
 そんなことは、既にヨーロッパの人たちも熟知していたわけである。
 では、何故に、ジパング=ジャパン=黄金の国なのか。実は、黄金とは、今、チラッと目に触れた、金箔なのではないかと思われるのである。
 もっと言うと、蒔絵などに金箔が使われる技術であり、さらに、蒔絵の美の根幹である、漆器にこそ、日本ならではの、また、日本でこそ高度に発達していた掛け替えのない技術・文化・伝統だったのであり、黄金とは、金箔を施された漆器文化・蒔絵がマルコ・ポーロを魅了したのではないか…。
 その漆器を<発見>して、美しく且つ丹念に塗り重ねられた漆器に、これまた技術の粋を尽くした金箔。蒔絵。これこそが、日本にのみ見出した黄金文化だったのではなかろうか。
 そんな説を唱える人もいる。

 蒔絵がジパングの文化の粋だったかどうかは、小生には判断できないが、漆器が日本で古来から高度に発達していたことは、間違いないようである。
 三内丸山遺跡という縄文時代の遺跡から漆器が出土したことは、興味のある人には周知の事実だろう。
 尤も、漆工芸の文化が大陸から渡ってきた面もあるのは、否定できないようだ。問題は、では、縄文時代の漆の文化も大陸由来のものなのかどうか、なのだろう。
 が、しかし、仮に縄文時代の土器が大陸の文化とは分離できないように、漆器の技術も日本で独自に生まれたものではないのだとしても、高度に且つ独自に発達していったのは、日本においてだった、とは言えそうである。
 どうやら、漆の木が育つためには、日本の気温とか湿度などが相応しかったのだろう。器の土台となる木々も豊富だったわけだし、漆の文化は日本で根付き発展を遂げたと思っていいようだ(この点は、土器文化との絡みも含め、もう少し、常識的なことだけでも言及しておきたいが、ここでは略す)。
 とにかく、縄文時代早期の遺跡から、漆塗りの副葬品が大量に発見されている:
垣ノ島B遺跡
漆(うるし)塗りの櫛(くし)

 漆塗りというと、誰しも連想するのは、輪島の地だろう。
 この興味深いサイトには、輪島の塗師について書かれているが、この「塗師」を「ぬりし」と読んでは拙い。「ぬし」と読むのである。
 かの輪島に何故、漆塗りの高度な技術が発展したのか、その秘密は分かっていないことが多いらしい。古文書の多くが、水害や火事その他により消失し、詳しい歴史的経緯が不明になっているからである。
 昨日のラジオでは、この輪島の地では、税が異常に高かったという話を聞いた。88%とも。信じられない課税(年貢)割合だ。
 これも、「輪島の塗師は、形や模様についても考えるプロデューサー的な仕事も兼ねる。また、輪島塗の特徴に、行商という販売スタイルがある。塗師自身が全国のお得意さんをまわって、注文をとり商品を売るのだ」という点に秘密があるようだ。
 つまり、作った産物を独自に販売するルートがあるので(例えば、北前船で漆器などが北海道へも運ばれ売られていた、など。商人たちは陸路を使ったらしい)、法外なとも思える高税率を課しても、構わなかったのだろうとされている。
 現代の漆工芸家の目から見ても、縄文時代の漆工芸品の技術はかなりのものだったという。既に相当程度に漆の技術が極められていたというわけだ。
 そんな漆工芸品。その粋である金箔を施された、漆の技術を根幹とする蒔絵や襖その他の黄金の技術の数々。その総称が黄金の国=ジパング=ジャパン=漆器となったのだろうと、推測することが可能なのである。
 ここでは、漆器やジャパンについての簡単なメモに終わっているが、興味深い話題なので、追々、追記もしていきたいものである。



                                (04/09/16)
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by at923ky | 2005-03-14 08:48 | 古代・歴史・考古学

二重まぶたと弥生人


 4月16日に古代史や考古学に関わる事績で重大な報道がなされた。朝日新聞の同日夕刊によると、「鳥取県青谷町の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡で、約2000年前の弥生時代の人の4分の1から5分の1の大きさの脳組織が出土したと16日、同県教育文化財段が発表した」とある。
 弥生時代の「脳組織が分析可能な状態で見つかったのは国内では初めて」で、それというのも、「遺跡は低湿地帯にあり、適度な水分と粘土層で外気を遮断したことなどから、保存状態が良かったらしい」とのこと。
 弥生時代後期の遺跡から発見された92体の遺骨を鳥取大学医学部の井上貴央教授(解剖学)が鑑定し、その中の「3体分から脳が見つかり、うち2体は保存状態が良かった」というのである。
 更に朝日新聞の報道によると、「これまで古代人のDNA分析は骨などから取り出したミトコンドリアのDNAに頼っていた。しかし、ミトコンドリアDNAは情報量が少ない上、母親から伝わった特性しか持っていないため、父親の系譜をたどるのが難しかった」
 「中国大陸などでこれまで出土している人骨のDNAと照合すれば、弥生時代の日本人のルーツを探る手がかりとなるかもしれない」と井上教授は述べる。
 小生など古代史や考古学ファンならずとも非常にワクワクするニュースだった。
 ところで小生が古代史や考古学に関心を抱き始めたのには、非常に個人的な切っ掛けがあった。
 それは大学に入って2年目の夏、田舎に帰省していた小生は、いつものように夕暮れ近く家の近所を散歩し、いつしか神通川という田舎では大きな川の土手に至ったのである。護岸を施された堤を沈み始める夕日を対岸に見つめながら歩いていると、ふいに突風が生じた。そして小生の目に埃が入ったのだ。
 目を擦るといけないと思いつつも軽く擦ると、ポロッと涙が零れたりしたが、その涙は何の感傷の意味もないことは言うまでもない。
 ところが、ゴミは涙で流れ落ちたという感じはあるのに、何か眼の辺りの感触に違和感を覚えたのである。
 しかし、それはそれだけのことだった。遠い記憶だと、そのままいつもの散歩コースをゆっくり歩いて、暗くなった頃合いに我が家に帰ったと思う。
 帰宅してからも、依然として目の周辺にいつもとは違うむず痒さがあり、心配性の小生は鏡を覗かざるをえなかった。
 恐る恐る覗いた鏡に小生は愕然とした。
 何と、そこには二重瞼(まぶた)の自分の顔が映っているではないか。
 正確に言うと、小生の左の目は奥二重だった。目が小さいので一重に見えないこともないけれど、元々から二重は二重だったのである。
 ところで問題は右目である。右目はどう眼をしばたいてみても一重だった。生まれながらの一重だったのである。
 その右目もその神通川の不意の疾風の悪戯のせいか、奥二重になったのである。
 ただ、しっかり覗かないと気が付かないような小生らしい謙虚な二重で、親も姉妹も変化には気づかなかったようだ。
 その奇妙な経験は、何か異常な経験として友人の誰にも告げなかった。そして一回り以上の年月を経て、既に小生も三十路を超えたある日のこと、テレビ好きな小生は、いつものようにダラダラとテレビを見ていたのだった。
 が、その何かの番組で長年の小生の怪事は決して怪事ではなく、実は日本では珍しくもなく生じる現象だと分かったのだ。
 その番組である先生が曰く、[日本人のベースは縄文人である。そこに弥生人がやってきて、その後の長い時間をかけた混血の上に今日の日本人はある。ところで縄文人はどちらかというと東南アジア人と共通するところがあり、やや毛深かったり、彫りが深かったり、体型ががっしりしていたり、眼が二重なのである。 
 対して、弥生人は(これは中国系なのか朝鮮系なのか、それとも蒙古系なのかはっきりしないが)、体毛は薄く、彫りは浅く、体型がすっきりしていて、顔は細長く、眼は一重瞼なのだ。
 そうした大きく違う二つの系統の上に多くの日本人は成り立っているので、時に奇妙な現象も生じることがある。つまり、多くは二十歳前後だが、それまで一重瞼だった人が不意に二重になることが、まま、あるのである]と。
 上記の[ ]内の談話は小生の記憶に残ったものを文章にしているので、先生の正確な談話ではない。
 ところでこのテレビ番組を見て、小生の長年の疑惑というか懸念というかは氷解したのである。
 もっとも、この<怪事>を胸の奥深く潜めつつ、小生はもしかしたら特別な人間ではという、何処か自惚れた意識も吹き飛んでしまったけれど。
 いずれにしても、小生は平凡な日本人の典型だということが分かった、あの日のテレビだった。
 それから小生は他人事でなく、古代史や考古学に関心を抱き始めたのである(なんといっても、その先生の説が説明としては納得できても、科学的に正しいのかどうか、今一つ確信が持てないし)。
 近い将来の研究の成果を、そして読者諸賢のご指摘を期待したいものである。


(01/04/18)
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by at923ky | 2004-12-15 20:54 | 古代・歴史・考古学