カテゴリ:随想( 19 )

朱欒…さぼん

季題【季語】紹介 【10月の季題(季語)一例】」を眺めていて、気になりつつも、漢字が読めないばかりに、つい目を背けてしまう季語がある。
 それが今日の表題に選んだ「朱欒」である。
「朱鷺」に似ているようでもあるが、違うことは小生も分かる。(ちなみに、「朱鷺」は「しゅろ」と読み、鳥トキの異名である。ちなみついでに書けば、小生が帰郷の際などに東京から上越新幹線を使う新幹線の愛称が「トキ」なので、敢えて漢字で表記すれば、「朱鷺」となるのかもしれない)。

c0008789_2349023.jpg さて、もったいぶるのはよそう。小生だって今、調べてみて分かったのだし。「朱欒」は「ざぼん」と読む。
 そう、果物の「ざぼん」である。別名は、「文旦 (ぶんたん)」である。
季節の花 300」の「文旦 (ぶんたん)」なる頁を覗いて画像をまず見てみる。

↑20日夕刻、家の直近の駅近くにて。月影は分かるとして、その右斜め上に小さく星影が…。

 その上で、説明を読むと、「東南アジアのマレーシア原産」であり、「17世紀頃、中国の船が難破して鹿児島県に漂着したが、その船に乗せていた文旦が国内で広まった。 名前はそのときの船の船長の名前、謝文旦さんの名をとって命名された」とある。
「みかん類では最大の実をつける」とか。
 さすがに果物にも疎い小生だが、「ザボン」と聞くと、現物が思い浮かぶ。しばしばというわけではないが、時折は食卓で見たりしたことはある。
 ポルトガル語の「zamboa」が「朱欒(ざぼん)」として表記されたのだろうか。

続きがあるんだよ
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by at923ky | 2005-10-21 02:07 | 随想

雨月

季題【季語】紹介 【9月の季題(季語)一例】」を眺めていて、まだ採り上げていない季語の中にも、気になる言葉が幾つも見出される。
「秋の夜、夜長、夜なべ、夜食、名月、月見、無月、雨月、枝豆、芋、十六夜、子規忌」…。
「十六夜」も「子規忌」も、まだ早い。「名月」や「月見」はこの先、何度でも触れることになるだろう。
「曼珠沙華、鶏頭、雁、秋扇、秋刀魚」なども気にかかるし、あれこれ書けそうだが、やはり時期尚早の感が強い。
 で、昨夜半過ぎの猛烈な雨もあり、「雨月」など調べてみようと思う。
 それにしても、月をめぐっては実にさまざまなことが語られ感じられ思い入れされてきたことだ。小生にしても、せっかちなもので、既につい最近、「夕月夜…秋の月をめぐって」を書いたばかりなのだった。

 さて、「雨月」というと「雨月物語」と、紋切り型の知識しかなく、かといって、上田秋成の「雨月物語」は、読んだことは二度ほどはあっても、小生に作家やその世界について語るほどの準備があるはずもない。
(「雨月物語」については、松岡正剛氏の「千夜千冊」をどうぞ。)
さきわいみゅーじあむ」の「今月の季語 9月1日~30日(陰暦8月4日~9月3日)」(名月(めいげつ)」の項)によると、名月の夜に雲がかかって中秋の名月に接することができないことを無月(むげつ)、雨のために全く見られないことを雨月(うげつ)、空気が澄みわたり、中秋の月光が輝く夜を良夜(りょうや)とい」うのだとか。
「雨月」には、「雨の月」という季語表現もあるとか。
 中秋の名月は愛でることができることを期待しつつ、さらい「雨月」の周辺を見てみたい。
 ネット検索していたら、「雪月花 季節を感じて」という素敵なサイトを発見。その「あ~お で始まる ことば歳時記」の「雨月(うげつ)」の項を見ると、「陰暦八月十五日の仲秋の名月が、雨にたたられて見えないこと。姿は見えなくとも、時折雲の切れ間から月の光がもれて明るんだり、雨の合間にほの明るくなる様子にすら情趣を感じていた古人のこころが偲ばれます」とある。
 やはり、雨に祟られていても、月影を恋焦がれる古人の思い、ということになるのか。
 実際には、月影がまずは望めないからこその「雨月」のような気がするのだが。
(05/09/15am)

続きが肝腎かも
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by at923ky | 2005-09-16 23:46 | 随想

秋の蝶

俳句歳時記」の「季語集・秋」によると、「秋の蝶(あきのちょう)」は、「秋に見かける蝶をいう、しじみ貝に似て紫色の小さなものがしじみ蝶」で類義語・類語に「秋蝶、しじみ蝶」などがあるとか。
 類語というわけではないが、「秋の蚊」や「秋の蝿」「秋の蝉」などは、どことなく同じ風情を予感させる語群に思われる。
「秋の蚊」は、同上サイトによると、「残る蚊 別れ蚊 蚊の名残」といった類語があり、「秋まで残る蚊を言うが飛び方も弱々しく刺す力も弱くなる」といった光景。
「秋の蝿」は、「秋冷の頃の蠅は元気がなくなり、もっぱら日なたを力なく飛ぶ」という。「残る蠅」が類語としてある。
「秋の蝉」は、「夏の合唱するような鳴き方ではなく、あちこちで澄んで鳴く蝉のこと」だとか。類語は、「秋蝉 残る蝉」のよう。
列挙しておくと、「秋の蜂」は、」「春夏とも活動しているが、冬眠に入るまでの間活発に飛び回る」で「残る蜂」。
「秋の螢」は、「初秋の螢、光も乏しく盛時を過ぎてからの螢なので哀れ深い」で、「秋蛍 残る螢 病螢」。
「赤蜻蛉」という季語があって、「秋空に群れる赤蜻蛉の姿は爽涼で秋そのもの」であり、「茜蜻蛉」という類語があるとか。ガキの頃、暮れなずむ空の下、赤トンボなどを追うころには、夏休みも終わりだったりする。夏の終わりというより、休みが終わるほうが寂しい、つまらない、ガッカリと言う気持ちが強かったような。 
 学校へ行けば仲間に会える楽しみがあるはずだけど、自分については憂鬱の感を覚えていたようだ。勉強も嫌いだったし、小学生になって間もない頃は特に授業が嫌だった…、先生が嫌いだった。
 子供心に先生も自分のことを嫌っているのを嗅ぎ取っていた。できればできの悪いガキなどいないほうがありがたかったのだろう。その意味じゃ、先生も小生のようなボンクラが教室にいて、苦労したことと思われ、今となっては同情の感が強い。

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by at923ky | 2005-09-16 15:16 | 随想

複素数から虚構を想う

 今時の高校ではどうか分からないけど、小生が高校生の頃は、数学では複素数を扱っていた。
 小生、訳もなく複素数の登場にワクワクしたものだった。やっと、本物の数学に触れられると、初心な小生は、教科書や黒板などに複素数(iという記号)という言葉が踊るだけで胸躍らせたものだった。
 が、さて、理解できたかと言うと、とんでもなかった。一応、教科書に書いてある記述は、フォローはできる。が、なんだか、分からない。掴み所がない。参考書を読んでも事情が変わらない。
 そこで、小生は、遠山 啓著の『数学入門 上・下』(岩波新書)を入手。なんとなく分かったような気がした。

 尤も、そこで分かったことは、ただ一つだったかもしれない。それは、複素数というのは、誰かから教えられたようには、あるいは字面から受ける印象とは違って、決して虚構の数、計算上、数学の体系上の都合で便宜上<存在>する数なのではなく、<実在>する数なのだということ。
 ある意味、このことは、小生の凡脳では理解が及ばないと直感しつつも、単に数学に観念を限ってさえも、とてつもなく巨大な、掴み所のない世界が広がっていることの啓示だった。

 啓示…。そう、そのような言葉を使って表現しても、必ずしも大袈裟な体験ではなかったように思う。

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by at923ky | 2005-09-08 23:33 | 随想

梅雨のあれこれ(紫陽花編)

 6月というと、何を真っ先に思い浮かべるだろう。紫陽花。ちょっと早いけど蛍狩り。未婚の女性などは、ジューンブライドを連想されるだろうか。まあ、北海道は別として梅雨を思い浮かべられる方が多いのではなかろうか。
 東京もほぼ例年通りの10日、梅雨入りが宣言された。日中は、東京の都心では雨が降らないどころか、晴れ間さえ望まれて、おいおい気象庁さん、ちょっと焦ってんじゃないの、と思ったが、さすが、伊達に気象庁さんが宣言されたんじゃないんだね、その夜、遅くになってからだが、シトシトといういかにも梅雨を感じさせる雨が降り始めた。
 ただ、なんとなくからっとしている感じがあって、ジトジトはしていない。湿度の低い雨降りでは、今一つ、梅雨の感じがしないのである。
 梅雨は鬱陶しいね。でも、齢を重ねたせいか、なんとなく長雨もそれなりにいいかなと思ったりする。肌がなんとなくしっとりした感じがあるし、草木が潤いを得て緑が一層、濃くなる。葉裏を伝う雫をじっと眺めているだけでも、何か、ホッとするものを感じる。
 「緑滴る」とか、「風薫る」などの言葉は梅雨の時期を表した言葉(季語)ではないが、小糠雨に濡れそぼつ木々や名の知れぬ草たちを見ていると、つい、緑滴るなどと表現したくなる。

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by at923ky | 2005-05-21 23:15 | 随想

赤い星あれこれ

 今夜は、火星が地球に大接近する夜だという。その距離は、約5千5百万キロメートル。月と地球とは、平均すると38万キロメートルというから、ざっとその15倍の距離まで火星が近づくわけだ。

 火星については、雑学的な知識があったり、人それぞれの思い入れがあったりするものだ。
 小生はガキの頃、ほんの一時期、天文少年で手作りの天体望遠鏡で家の庭に立って、月を眺めた時の感動が今も鮮烈である。まだ、小学校を卒業していなかった頃のことだ。その望遠鏡で火星を眺めたかどうかは、悲しいことに覚えていない。
 そのほんの数年前までは、火星に火星人がいるに違いないと思っていた節がある。家には、イギリスのSF作家ウェルズの小説「宇宙戦争」があった。小生は、その世界にどっぷり浸った。
 既にちゃんとした天文学の本(入門書)であっても、否定はされていたが、火星には人工の運河がある。勿論、人工といっても、火星人の手になるという意味だが、宇宙戦争に夢中になった頃は、小生は、火星には火星人はいないと既に何かで読んで知っていた。
 ただ、今は既にいないが、昔は火星人がいて、運河はその名残なのだという説は、信じたくてたまらなかった。

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by at923ky | 2005-05-01 22:20 | 随想

千曲川・信州雑記

 島崎藤村の『千曲川のスケッチ』を読了し、簡単な感想文を書いた。せっかくなので、ここでは、感想文の中では触れなかった千曲川についてアトランダムに書き連ねたい。
 そうはいっても、小生は、千曲川どころか、長野には足を踏み入れたことがない。
 通過だけなら指折りでは難しいほどにあるし、松本市の松本城の天守閣にも四半世紀の昔、登ったことがあるが、長野の地に足を触れたのは、それだけのはずである。
 ま、立山黒部アルペンルートで、長野県の大町から山に上がっていくので、その際に大町にも立ったこともあるのだが、滞在したわけでも、町を散策したわけでもないのだから、やはり、基本的に長野県内の何処をも、まともには訪れていないということになる。
 そこで、例によってネットなどを頼りに、藤村の千曲川をめぐるあれこれを調べてみたい。
 千曲川というと、映画だと、古くは、『千曲川絶唱』がある。小生が中学生になった頃の映画(1967年)である。北大路欣也が主役で、その相手役となる女優は、星由里子だった。他には、田中邦衛、いしだあゆみ、平幹二朗らが主点していた。
 しかし、何より印象的だったのは、病院にあって死の床に就いている北大路欣也の前で、星由里子が着ているものを脱ぐシーンだった。

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by at923ky | 2005-05-01 22:05 | 随想

日の下の花の時

 道路上で車中などから容赦ない直射日光を浴びる街路樹やグリーンベルトの花々(ツツジ)を間近に見て、そもそも書きたかったのは、別のことだった。
 緑なす葉っぱや幹などはともかく、花々に何か強烈な印象を受けていた。それは何だろうと思い返してみたら、あまりにも呆気ない理由がそこにあった。
 そう、花というのは、端的に言って性器なのであり生殖器なのだということ。
 が、それだけでは言い足りない。それは分かる。えげつなさ過ぎる表現だということもあるが、では何故、本来は単なる生殖器のはずの花が、少なくとも我々人間の目には美しく、あるいは可憐に見えてしまうのか。
 それは、犬や猫などの動物(特にその子供)が可愛く見えるように、人間の勝手な思い入れや、長年に渡る親しみ、馴染みの故に過ぎないのか。そう、選択と丹精の結果に過ぎないのか。
 小生は見逃したのだが、何年か前に、「メイプルソープ&アラーキー」の「百花乱々展」が、小田急美術館で催されたことがある。

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by at923ky | 2005-04-19 22:05 | 随想

昨日、ラジオで聞いたこと(前置き)

 例によって車で営業している。暇なものだから、自然、ラジオに聴き入ってしまう。
 といって、学校の勉強じゃあるまいし、聴き入ってしまう、というのは大袈裟で、ただ漫然と聞き流しているというべきだろう。
 それに、学生の時だって、たまに今日こそは真剣に授業を聞かなくっちゃと、発作的に思うことがあったけれど、じゃ、そうして講義を聞いた時、耳に何かが残ったかというと、かなり怪しいものである。
 正直、笊(ざる)とまで自分の頭を思いたくないけれど、耳に残ったものというと、笊の壁面に流れ残った水滴程度だったのだ。ガッカリである。
 でも、別に今更、でもある。
 大体、学生の時は、授業の最中はノートに先生の話や黒板に白墨で書かれたことを書き写していたはずだった。それでも、帰ってからノートを見ると、一体、何を書いたのやらチンプンカンプンである。

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by at923ky | 2005-04-02 22:23 | 随想

物語のこと

 文学など専門的な立場で物語がどのように定義されているのか、小生は知らない。
 ただ、なんとなく物語という言葉を使っている。英語ではストーリーとなる。
 話に起承転結があるものの総称? でも、基本的には虚構であるという前提がある。
 すると、創作された起承転結のある虚構の作り話という性格付けでいいのだろうか。
 物語という以上は、語り手がいると同時に、聞き手もいるか、少なくとも語り手は聞き手を期待している。話を作った以上は、誰かに聞いてもらいたい、というのが正直な気持ちだろう。
 が、物語が生まれる土壌として、ある意味で、聞き手、乃至はある一定の範囲の社会の構成員の何かしらの期待があって、その期待を叶える形で誰か才能のある人、あるいは湧くように物語が口を突いて出る人が語るのだとも言えなくもない。
 語り手と聞き手は、相関関係にあるからという以上に、両者は作話の上での共犯関係にある、ということかもしれない。

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by at923ky | 2005-03-26 22:51 | 随想