「俳句ステーション」さんサイトの「【10月の季題(季語)一例】」を例によって取り留めなく眺めている。
「10月は季題が一年の中で一番少ないよう」だというけれど、それでも季語随筆の表題(テーマ)として選ぶとなると、迷う。 どの季語(季題)も歴史があり、古今の多くの方たちの思い入れがあり、また実際に詠み込まれてきたのだろうし。 と、なぜということもなく、今日は、いかにも地味そうな「稲架」に目が留まった。隣の「稲刈」でも良さそうなものだが、もう、その時期は郷里(富山の平野部)ではさすがに過ぎている。 新米も、まあ、食べるだけは食べて、古米にまた戻っていたりする。 「稲架」は「はざ」あるいは「はさ」、または「いなか」などと読まれ、「稲架掛 稲架組む 稲積 稲塚 稲干す」などの類語・関連語があるようである。 意味というのは、ほとんど文字通りで、「刈取った稲を掛けわたし乾燥させる為の木組み」というもの。刈り取った稲から籾を取るには、脱穀という作業を経る必要があるが、刈り取ったばかりの稲は湿っぽく、すぐには脱穀の作業に取り掛かるには難がある。 「優嵐歳時記」の「掛稲」を覗くと、まさにこれが「稲架(はざ)」だという画像を見ることができる(「掛稲(かけいね)」と読む)。 文中、「姫路あたりでは木組みに一本の竹などを横渡しにして稲を掛けますが、場所によっては何段にも積み重ねるところもあ」るとしているが、小生が郷里に居住していた頃は、竹ではなくて「まるたんぼう」(角材ではなく丸い形の数メートルの木の棒切れ)を横渡しにし三段から五段くらい積み重ねるようにして稲を架けていたような記憶がある。 つまり、上掲の「稲架(はざ)」の画像よりは高かったはずなのである。 そうした「稲架(はざ)」が何列にも並んでいて、近所のガキ連中と一緒に、カクレンボだったか鬼ごっこもやってはしゃぎまわったこともあったような。 乾燥した稲を下ろしたあとだったと思うが、まだ木組みが外され解体される前の木組みによじ登って遊んだような記憶もある。無論、こっそりと、である。 あるいは、大人たちは、そんなガキどもの遊びを知っていたかもしれないが、忙しくて叱る暇がなかった…、それとも、そのあとの作業もいろいろあるのだけれど、収穫も無事に終わっていて、内心、ホッとしていて、大目に見ていたのかもしれない。 いずれにしても、稲架の解体など後回しである。とにかく、稲こき機を使っての脱穀などの作業がまだまだ山のように待っているのだ。 ちなみに、「秋納(あきおさめ)」という季語がある。類語などに「田仕舞 稲架納 秋揚」があり、 「その秋の収穫の全作業終わったことをいう」とか。 「稲架(はざ)」が解体され家の近くの仮設に近い屋根と木の骨組みだけのある小屋に「まるたんぼう」が収められる頃には、「秋納(あきおさめ)」の時期が迫っている、というわけである。 しかしながら、小生自身は高校を卒業すると共に学生生活を異郷の地で過ごしていたため、夏休みには帰省するといっても、稲刈りの時期にも、稲架はもちろん、稲架掛けの光景にも全く遭遇することはなくなってしまった。 だから、いつから田圃から稲架が消えてしまったのかも分からない。 いつしか、子供の目には広々としていて田園風景が遥かに広がっていたものが、いつかしら途中に大きな駐車場が出来、工場が立ち、アパートが出現し、細切れな田圃が点在し、ついには昨年からは我が家の田圃も農作業の場からは遠ざかり、さらには荒れ放題になるところを、近所の人の好きな形で使われるのを容認するようになり…。 あまりに急激な変化の波に呑み込まれていった。田圃も稲架も何もかもが。 一家総出の農作業という風景など、とっくの昔に消え去ってしまった。父母も老い、ガキだった小生も今じゃ、どうにも役立たずな奴に成り果ててしまって…。 思えば、小生が小学生だった昭和の四十年代前半が父母すらも若く、とにかく懸命だったような気がする。眩しいほどだ。 稲架掛けの彼方の空の届かざる そうそう、秋納の頃には、葉っぱの落ち尽くした柿の木に成る柿の朱色が晩秋の抜けるような青空を背景にあまりに鮮やかだった。 柿一つ蒼穹の空負けず成る ところで、多くの方が疑問に思っておられることだろう。 そう、「稲架」をなぜに「はざ(はさ)」と読むのか、と。 予断だが、「全国稲架アンケート」(「じぷしい農園のホームページ」より) などというサイトがあった! その名も「稲架」というサイトを覗くと、何段にも積み重ねられた稲架の画像(島根)を見ることができる。 が、それより、「(挟(はさ)むの意)木や竹を組み、刈り取った稲をかけて乾燥させる設備。はざ、おだがけ、いなかけ」という説明が興味深い。 あるいは、「稲架」と「挟(はさ)むの意」とが合体して、「稲架(はさ はざ)」ということになったのだろうか?! 「産経Web Special[探訪] 郷愁誘う豊穣の“立役者” 新潟県岩室村「稲架(はざ)木」 」なるサイトがまた興味を沸き立たせる。 「朝日を受けて、田植えを終えたばかりの水田に映える稲架(はざ)木」の光景を見ることが出来るのだ! 「収穫した稲を乾燥させるという本来の役目を失ったものの、今もあぜ道にたたずみながら、稲の無事な成長と豊作を見守っているように思えた」とコメントは続いているが、もともとは、「稲架(はざ)」は、木の棒で組み上げたものではなくて、「木の間に棚状に棒を渡し、刈り取った稲を架けて天日干しにする支柱として使われてきた」というからには、その目的のための木を「稲架(はざ)木」と呼び習わし、やがて、組み立てられた木の棒の形が「稲架(はざ)」と呼ばれるようになったということかもしれない。 もとは、稲架(はざ)のための木の棒を取るための樹木が農村にはあったのかもしれない。やがて林などは民家が建ったり、農地が広げられたりして、伐採され、稲架(はざ)木だけが木の棒として残っていった、ということだろうか。 まだ、断定はできないけれど、ね。 [「稲架」について父母からいろいろ話を聞くことができた。 まず、我が地では「稲架」は「はさ」と呼び習わしていたという。富山市や高岡市の全域かどうかは分からないが。 ついで「稲架」は、少なくとも富山市の中心部に近い我が家近辺では9段に組み上げていたという。で、「稲架(はざ)木」としての木の棒を杭を打つように田圃の隅に打ち込んでいき、横に縄を渡していったという。 「稲架(はざ)木」という樹木は我が郷里では植えておらず、農協を通じて根元から切られた稲架(はざ)木の棒を入手していたとか。 さて、肝心の樹木としての「稲架(はざ)木」は、新潟などでは山間の川の堤に沿って、川が雨水などによる増水で氾濫し崩れたりしないよう植えられていて、特に新潟のある川沿いのものが延々と続いてて印象的だったとか。 樹木としての「稲架(はざ)木」は「はん」の木が使われていたという。新潟では、そのハンノキ(榛の木)をそのまま使っていたらしい。枝打ちをし、横に竹の棒を渡していたという。 やがて時代が経つに連れ、そうした作業が面倒になり、電柱のように根元から切られた木の棒を杭打ちするように打ち込んで使うように変わっていったとか。 こうしたハンノキや木の棒は堤防代わりにされていたという。枝打ちされた木々の枝も川の土手に沿って打ち込まれたりしたとか。 我が郷里一帯では、ハンノキを植えることはなく、稲架(はざ)木は農協を通じて購入していたと上で書いた。郷里にも川があり、そうした川にも土手を補強する必要がある。父の話によると郷里では柳の木を植えていたことがある時期まであったという。根っこから切って、土手の補強に使う。 柳はすぐに育つし、便利だったわけだ。深川などで川端に柳という構図が時代劇などで見られるが、必要に応じて根元から切り倒し、川の土手が崩れたりした時の補修に即座に対応できるようにしていたのだという。 つまり柳の木自体が川に沿って植えられていることで川の土手の補強になるし、必要なときには切り倒したり枝打ちして、その丸太状の木々を土手に杭打ちしたりするわけである。 柳のほかに「ならの木」も川沿いに植えられていることも多かったとか。珍しくはない木だったこと、根元から何本も木が枝分かれして育ってくるので、都合が良かったということだろう、とか。 (05/10/22 当日加筆)]
by at923ky
| 2005-10-22 01:36
| 季語随筆
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