バーチャルリアリティ(略してVR)という言葉は既に慣れ親しんでいると言っていいのかもしれない。但し、親しんでいるということと、その原理や効果や目的や可能性を熟知していることを保証するはずのないことは、言うまでもない。
例えば、下記のサイトでVRについての定義を見てみよう: 「仮想現実。コンピュータの3次元シミュレーションなどにより、人間にとっては現実のイメージに近い仮想的な世界を作ること」とある。 まあ、こうした新しい概念というのは、理屈を理解するより、「センサーに応じた3Dの映像」などを実地に体験するにしくはない。 但し下記のサイトを見るまでもなく、「仮想現実」という訳語は誤解を与える(2): 「「みかけや形は原物そのものではないが、本質的あるいは効果としては現実であり原物であること」であり、これはそのままバーチャルリアリティの定義を与える」 つまり、敢えて仮想という言葉を使うなら、手段としての媒体の我々に与えるみかけや形は原物そのものではないが、我々に与えられる結果としての「現実」は、まさに現実であり原物なのだということだ。 上掲のサイト(2)に書かれているように、「バーチャルは virtue の形容詞で、virtue は、その物をその物として在らしめる本来的な力という意味からきている」のだという。 我々は今のところは、バーチャルに与えられるリアリティを、新奇なもの、仮想のもの、第二の現実と捉えがちである。その与えられた「現実」から、「現実」を架構している装置の電源を切るなりすれば、我々の慣れ親しんだ「現実に戻る」のだと思っている。 つまり、バーチャルリアリティはあくまで仮象の世界なのだ…。 小生にしても、そんな「誤解」を持っている。 例えば、何かの映画に夢中になり、そのドラマの世界にのめり込んでしまったりする。恋愛の映画かもしれないし、戦争の映画かもしれないし、ファンタジーの世界に遊ぶ漫画かもしれないし、高倉健の主演するヤクザ映画かもしれない。 で、一瞬は、その世界の人間になりきったりして、映画館の館内の薄闇を出るまでは、肩で風切ってみたりして、なんだか自分が偉くなったと錯覚したり、恋愛の主人公になっていたりする。 が、一歩、外に出て、外の眩しい日の光を浴びたり、あるいは喧騒に飲み込まれ満員電車に揺られたりすると、段々、目覚めてくる。何処へと目が醒めるのか、それは我々の慣れ親しんだ現実の世界へとなのであり、平凡であまり夢のない日常にいる自分を見出し幻滅するというわけである。 バーチャルリアリティの与える「現実」も、構造的には同じようなものであって、目が醒めたら、装置を取り外したなら、その世界から降りるべき架空の現実なのだと思いがちなのである。 確かに、これまでの多くの装置は、いかにも作り物めいている。グラフィックな効果を狙っていることがバレバレだったりする。巨大な竜巻も、映像の中でコンピューターグラフィック(CG)の力を生かして架空されたものだと、映画のパンフレットや宣伝の中で説明されていたりする。 が、装置の効果の稚拙さは技術で乗り越えられるに違いない。敢えて説明されないと、例えば映画でもCGで巧みに映像化された画像なのか、それとも本物の、原物の画像なのかは分からなくなる。 実際、急激な技術の進展は、そのような段階に入りつつあることを予感させているし、既に分野によっては、架空された現実なのか、原物なのかの区別が付かなくなっているようにも思える。 さて、上掲のサイト(2)にあるように、「人間が人間が捉らえている世界は人間の感覚器を介して脳に投影した現実世界の写像であるという見方にたつならば、人間の認識する世界はこれも人間の感覚器によるバーチャルな世界であると極論することさえできよう」 我々は肉眼で現実の世界を見ている。肌で風を直に感じている。舌で味わっているのだし、耳で誰かの囁きを聞いているし、鼻(嗅覚)で臭いを嗅いでいる。 が、では、我々の感覚器官がリアルに現実を捉えているかどうかとなると、これは厄介な哲学談義になってしまうが、いずれにしても、現実を知覚する手段が、従前通りの肉体的な感覚器官であって、それを通じて「我々に与えられる結果としての「現実」は、まさに現実であり原物なのだ」し、現代の技術の粋を尽くしたCGやVR装置を通じて「我々に与えられる結果としての「現実」は、まさに現実であり原物なのだ」。 どちらも本物の現実だと主張するわけだ。 その境目は、徐々に曖昧になり、区別が付かなくなることも十分に考えられる。装置の電源を切らないで、スイッチをオンにしたままにVR装置などで恋愛が成就した状態を一生、継続していたのなら、その人は豊かな恋愛体験のままに生き死んだということになるのだろうか。 VR装置を組み込んだウエアを身にまとって、雨が降ろうが風が吹こうが、雷が鳴ろうが、その衣装の中の人が、的確に作動する、身体にとって快適なホメオスタシス空間の中に生き死ぬというなら、その人はそれ以外の「現実」を知らないわけであり、その人は、結果としての快適な「現実」に生きている、その人にとっての原物に触れて生きている、ということになるのだろうか。 頭に特殊なヘッドギアをかぶり、それまでだったら麻薬などのドラッグでなければ実現できなかった快感に満ちた脳や身体の状態を現出できるのなら、それはもう、第二の現実ではなく、既に我々の現実そのものということになるのだろうか。 ヘッドギアを外したら…、そしたら現実に戻るじゃないかって。 何故、外さなくちゃいけないの。そう、だったら、ギアを外さなければいいだけの話だ。何故にこんな快適なギアを外す必要があろうか。エアコンの効いた部屋で、あるいはエアコンの効いた衣装の中で一生、暮らせる、そんな状態を可能にする技術が実現しているのなら、エアコンを効かせっ放しにすればいいだけの話だ、というわけだ。 そうなると、我々が何となく脳裏に浮かべる現実というのは、何処へ行ってしまうのだろうか。確かに現実に町中を自分の足で歩くことは楽しいし、快適なことだが、町中はディーゼル車の排気ガスで空気が汚れているし、煙草の煙に悩まされるし、何処でどんな碌でもない強盗や変人に出会って被害を被るかもしれないし、交通事故に巻き込まれるかもしれない。 だったら、徹底して快適な、そして完璧なVR装置を身にまとったまま、目の醒めることのないバーチャルリアリティ時空に生き続ければ、そのほうが余程、間違いがないし事故もないし、体も脳味噌も安楽この上ない、とうことになる。 CGやVR装置が創出し、我々に与えられる結果としての「現実」は、まさに現実であり原物なのだということは、理屈の上では否定できないのだろう。今は仮想と現実を区別できるが、今に技術の進展が両者の区別など論外の状況を実現するのだろう。 では、さて、「現代の技術の粋を尽くしたCGやVR装置を通じて「我々に与えられる結果としての「現実」は、まさに現実であり原物なのだ」という時の現実と、我々が慣れ親しんできた現実とは、やがては全く同じもの、少なくとも識別はし難いものに本当になっていくのだろうか。 われわれの慣れ親しんだ現実って、一体、なんだったのだろう。川のせせらぎや、木漏れ日や、葉裏を伝う滴の瑞々しさや、人の手に触れるその温かさや、愛する人の囁きや、人の努力を応援する声や、大地を裸足で踏み締める曰く言いがたい豊穣な感覚というのは、やがてはVR装置の創出する結果としての現実の時空に呑み込まれていくほどのものだったのだろうか。 VR装置が完璧なものとなり、そうした装置を纏っていることさえ忘れられるなら、それはそれでいいじゃないか、獲得された現実も現実で、しかも、夏の寝苦しい夜に突然現れる蚊に悩まされることもないし、夢は覚醒で途切れることなく貪れるし、何も言うことはないじゃないか、ということになるのだろうか。 戦争だって液晶画面の彼方のバーチャルリアリティに過ぎないし、流されている血も、きっとあれはバーチャルリアリティなんだよ、きっと画面が切り替わったら、傷付き倒れた人も、起き上がるに違いないよ、そんな風にお気楽に考えられたら、どんなに素晴らしいことだろう。 でも、あの血は本物だよね。 きっと、第二の現実ではないほうの原物なんだよね。 (03/10/03)
by at923ky
| 2005-08-25 00:32
| コラムエッセイ
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