あるサイトの日記や掲示板で、同和問題(最近は、人権問題と呼ばれているらしい)が採り上げられていた。この問題は封建的な時代の遺習とはいえ、現代も生々しい形で、その差別の実態は残っているようである。
多くは部落差別の問題だったが、そうした同和地区の問題は、見かけ上はかなり改善されたとも聞く。が、実際には、部落を出ても、出自の過去が付き纏い、結婚ができなかったりなど、問題の根はより陰湿になり複雑になった面もあるのかもしれない。 結婚の際、相手方の<身分>を調べるなど、今も深刻な現実があるとか。 その陰湿さの一つの面として、「えせ同和行為」が時折、新聞などで記事になるのを見かけることがある。つまり、同和問題の重さや一旦、関わった時の厄介さという現実に乗じる形で、同和問題を口実にして企業や公的機関に不当な寄付や利益を募ったりする。 部落問題や差別を扱った小説には、住井すゑの『橋のない川』とか、島崎藤村の『破戒』など、いろいろある。 差別という問題は、神野清一著の『卑賤観の系譜』(吉川弘文館刊)などを読むと、日本においては(日本に限らないと思うが)、少なくとも歴史と共に存在していたことが分かる。 本書を読んで、小生は、下記のような感想文を書いている。一部を抜粋する: 本書を読んで、「今も弱者や少数民を実質上排除している現代日本社会の縮図」としての「いじめ」という視点を学んだものでした。 (引用終わり) ただ、普段は考えることを避けている臆病な小生のこと、この同和(人権)問題をもっと卑近なところから少しだけ見つめてみたい。 それは「いじめ」という視点である。 いじめの現実には、かなりの人が早くは小学校に入ってから、あるいは遅くは中学や高校時代には経験するようである。 ただ、いじめられるという側にならないかぎり、つまり、自分がいじめる側に立っている限りは、いじめに関わっているとは気づかない、自覚しないことも多いのではないかと思われる。 いじめの現実。当然、いじめられる側といじめる側がいるわけだが、自分がいじめられているとさすがに当人は傷付くわけで、自覚を迫られるが、問題は、いじめる側は、自分(たち)がいじめる側に立っていると気づかないことが、往々にしてあったりすることだ。 というのは、誰かをいじめてやろうと思っていじめることも多いだろうが、それよりそうした現実を暗黙の了解、ないし無視、あるいは見て見ぬ振りという形で関わってしまうことになっている、当人はそんなことは露、思っていないにもかかわらず、そんな現実があるのではと思われるのである。 いじめという現実は、何処から始まるのだろうか。これはそれこそ人間の関わることで、その個性や当人のいる環境との絡みで多様極まりないだろう。一人一人、いじめの実態は違うだろう。最初は、本人でさえ、自分がいじめられているとも気づかない。なんとなく自分が排除されている、無視されている、話題の輪から外されている、みんながよそよそしいと感じることから始まったりする。 が、一旦、その違和感を覚え始めると、それは最初は、小さな、それこそ細波のような心の揺らぎに過ぎなかったのだとしても、気がついたら波紋は広がり波は高まり、やがては当人を呑み込んでいったりする。 そもそもなぜに自分がいじめられるのかが分からなかったりする。もしかしたらあのこと? と思ったりもするが、だからといって、そんなことでどうしていじめられるの? と不審に感じられる程度のものだったりする。 とにかく、いじめの芽が生じると、それは取るに足らない波紋のままに、時間の経過に従って消滅していくことが多いのだと思う。が、中には軋轢のエネルギーがひょんなことから蓄積し、やがて破裂に至ることもあったりする。 その多くは暗黙の、しかし関係者には歴然たる現実が生じると、その現実はもう、雪だるま式にエネルギーを蓄え、誰にも押し留めようもなくなってしまう。 あの子は、汚い、嫌な奴だ、というレッテルが一旦、貼られると、誰もがその子に近づかなくなる。 あの子と近づくことは、自分もその仲間になること、つまりいじめられる側に陥ってしまうことを意味するからだ。いじめられる理由など、どうでもいいのだ。そもそもいじめられる理由など、誰も正確に理解しているわけではない。なんとなく、うざったいから、訳もなく虫酸が走るとしか言えなかったりするのだから、始末に負えない。 いじめられる側も、わけが分からない。学校の現場だと教師も少なくとも最初は気づかなかったりする。が、いつか気づいたとしても、友達同士の有り触れた諍いの類いだろうと、関わらないようにするか、あるいは、関わるゆとりなど、先生たちにはないのかもしれない。いじめられる側に同情したら、クラスの大半の生徒を<敵>に回すことになりかねないとしたら、気づかないことにしたほうがいいし、そのほうが解きほぐすことの厄介な問題を抱えなくても済む。 いじめられる側は、ひたすらに孤立する。 そもそも何故、自分がいじめられているのか分からないのだから、現状の打開など図れるはずもない。心に生じた違和感というのは、それを解そうとすればするほどに、蟻地獄に陥っていく。底なし沼に嵌ってしまって、足掻けば足掻くほど、一層、深みに嵌り込み、気が付いたら窒息寸前である。息もできなくなる。 こうなると、いっそのこと自分で命を断ったほうが余程、楽だと感じられるほどになる。孤独というのは、辛いものだが、時に淫靡な快感があったりして、それが命取りとなり、より深い、度し難い孤独へ追いやってしまう。 自殺も考える。あるいは、親のことなどを考えて感情を表に爆発させることのできない子だと、自分の心を、自分の肉体を苛み、摩滅させていく。感情が失われるか麻痺してしまったりする。感じることを止めてしまう。感じなければ、いじめなど存在しないも同然だというわけである。 うまくいけば、そのいじめの日々は遣り過し、生き延びることだってありえないことではない。生き延びた時、感情が涸れ果ててしまっていないことを祈るのみである。学校などでは、クラスが、環境が変われば、つまり、当人がその中に居る池から他所へ移れば、場合によっては、いじめの現実からは脱却できるかもしれない。卒業までに心の命が保たれていれば幸いである。 さて、いじめる側はどうなのだろうか。自分がいじめる側に立っていると自覚しているのだろうか。 明確に自覚している場合というのもあるだろうが、少ないのではないかと推測される。また、自覚していても、当然のこと、悪いのは相手のほうだと確信していたりする。うざったいからいじめる、無視する、相手にしない、それだけのこと、別にいじめているわけじゃない、というわけだ。 そして、そのいじめられる側といじめる側の周辺には無関心の輪が広がっている。実のところ、この無関心の輪のほうが実際には、もっと厄介なのかもしれない。いじめられる側もいじめる側も、その時に、あるいは場合によっては何年も後になって、心の傷となり、反省することも考えられるが、いじめの現実を支える格好になっている無関心の大きな輪の一人一人は、ひたすらに無自覚だったりするのだし、自分が悲惨な実体に対しては無垢だと、無実だと思っているから、自覚しようにも自覚のしようがない。 いじめというのは、つまりは極論すると、無関心の海が実態を浮かべている、支えているのだと言うべきなのだと小生は思う。 いじめている側が、万が一、いじめられている側に同情し、なんとか助けてやろうと思ったなら、さて、一体、どうなるだろうか。いや、そんなことをそもそも思い立つだるうか。あの子は何故、いじられなきゃいけないの、そんなことはいけないことじゃないか…。 そんな形で声をあげることは、とてつもなく勇気の要ることだろう。自分までが孤立する危険性が高いのだ。自分までがシカトされる危険性が極めて高い。あの子を助けなくちゃ、でも、できない…、そして押し黙る。いじめなど、最初からないことにする。 第一、自分だって学業にクラブ活動に、恋に、化粧に、将来の進路に、自分の健康にと、いろいろ気遣う問題が山積していて、人のことを構っていられるわけもない、というわけである。 いじめでなくても、あるいは差別という深刻な実態ではなくても、人の優劣の認識の実態は、無数に存在する。 卑近な例で行くと、成績の差での序列、親の経歴(職業)などでの序列、家の資産の上での序列、学校が所属する系列の上での序列(大学の付属の幼稚園から順調に小学校へ、中学へ、高校へと上がってきたのか、それとも、他のルートから参入してきた新参者なのか…)、身長や体重、体型、美醜の上での序列、性格の上での序列(友達をたくさん作れるか、すぐに誰とでも友達になれるか)、情報収拾力に由来する序列(噂をたくさん仕入れることができる奴は、できないやつに対して優位に立つ)…。 とにかく、序列の理由・契機など、無数にありえる。なければ、違いを見出すのが人間なのだ。 仮に、美容整形が完璧に可能になったとして、誰もが容貌(身長を含む容姿は未だ難しいだろうが)が同じであっても、顔の表情のほんの僅かな違いを見分けてしまうのが、人間なのである。双子でも、双子同士だと、あるいはその親兄弟(姉妹)だと、互いを見違えることなどありえないだろう。互いの違いをしっかり見分けているからだろうから。美容整形は問題の先送り程度の効果はあるだろうが。 これら、当たり前の現実の中の、日常的過ぎて目に見えない序列というのは、差別だとか、あるいは明確にいじめだとかには発展しない場合が多いと思っていいだろう。 が、この不可視の序列というのは、陰湿な形で人の心や行動や人生の選択を左右していると考えられる。 小生は、地上の星々という小文を書いたことがある。地上に生きる人は、動物を含め、誰もが、皆が、それぞれに懸命に生きている。誰もが星なのだ。誰もが命の火を絶やさぬよう輝いている。誰もが輝いているからこそ、人間も動物もそれぞれが眩しい存在なのだ。人の思い入れに由来する優劣の感情も、人と動物との人間による勝手な優劣も、そんなものは、天の月から眺めたら、あまりに愚劣で、瑣末に映るに違いない…。 それこそ、スマップだったかの歌にあるように、「そうさ、ボクらは世界にひとつだけの花、ナンバーワンにならなくてもいい、もともと特別なオンリーワン」などと歌ってしかるべきなのだ。 といいながら、自分の言っていること(書いていること)に矛盾するようだが、人間は違いに拘る生き物なのだ。というか、違いに価値を見出してしまう動物なのだ。違いがなかったら、殊更に髪形を変え、顔に化粧をし、エステに通い、ファッションに敏感になり、そうしてやっとほんの少しでも人とは違う自分を演出し、外見上でオンリーワンであ(かのようであ)ることに安堵する。 犬やネコから見たら、顔の美醜やファッションなど、全く、問題にしない。自分にとって優しい人であるかどうかだけが問題なのだ。自分を大切にしてくれるかどうかだけが、肝腎の事柄なのだ。互いを信頼しえるかどうかだけが、喫緊の関心事なのだ。 その意味でこそ、オンリーワンなのである。 が、人間は犬やネコには学べない。学んでも学習には至らない。人間にとってのオンリーワンは、他人と違うという意味でのオンリーワンの域を抜け出ることが出来ないのだ。世界に一つだけの華である事に我慢がならないのだ。群衆の中で、自分が光っていないと生きているとは思えないのだ。誰もが互いに大切とは一般論では分かっていても、いざ、他人を目の前にすると、相手のほくろが気になり、仕草や振る舞いが気になり、自分のにきびが気になり、その一個のにきびのゆえに憂鬱になるのだ。 なんて、人間って厄介な動物なのだろう。違いに拘るしか自分を見出せないというのは淋しい限りのはずなのに。目を閉じ、音楽に聞き入っている限りは、無償の愛、至上の愛、人類への、生きとし生けるもの全てへの愛情に満ち溢れているというのに。 目を閉じないと愛することが出来ない。抽象的な形でしか、つまり無条件には人を受け入れることが出来ない。生きている限りは、そのようであるしかない。差別もいじめも他との違いに価値を見出さないと己を自覚できない性(さが)に由来する(人間には限定されないと思うが)。 ああ、でも、その小さなことに拘る人間が、いじらしい。そう、自分も含めて、いじらしくてならないのだ。 そう、人間は感情の動物なのだ。というか、動物とは感情に生きている、人間もその範疇を逃れられないというべきか。究極のところ、好きとか嫌いでしか行動できない。行動の原理というと大袈裟だが、その実態はというと、つまりは好悪の感情が土台にあるだけのこと。 感情、情動というのは、理屈を圧倒するもの。そして大切にすべきものだとも小生は思う。生きる上で、そこにしか依って立つ地平はないのだし。 このように考察していくと、まるでいじめを肯定することになりかねない。少なくとも容認していることになると<誤解>されそうである。 が、もしかしたら<誤解>ではないのかもしれない。明瞭かどうか、意図的かどうかは別にして、日々いじめの構造の中に生きている、そこからは逃れられないのだと認識すべきなのかもしれない。 仮に唯一、差別もいじめもその深刻さを緩和しえる道があるとしたら、とにもかくにも、自分にしても、原始的かもしれないが、感情の動物だという現実を自覚することにしかないのではないかと思う。 情ない結論である。でも、他に道はあるのだろうか。 (03/11/16) [ 小生は、何のとりえもない平凡な人間である。自負できること、他人に向かって自慢できることも、これといってない。我ながら、情ないこと極まりない。 けれど、決して虐めるやつ等の側にだけは立たなかった、それだけは云える。あるいは、単に他人とのコミュニケーションが取れず、虐める側に加えてはもらえなかったというに過ぎないのかもしれない。 でも、万が一にも誰か(の仲間)が誰かを虐めたりしているのを知ったとして、自分が虐めの側に立つことを求められても、決して加担など、しない。虐めの対象について噂が流されたとしても、噂を流すのが自分の友であったとしても、まず、その理由や原因が本当なのかを自分の目で確かめる。 確かめることができないなら、決して虐めの連中の仲間などにはならない。仲間になることを拒否した結果、自分までが孤立したり虐められるような結果に至ろうとも、である。 自分なりの虐めに怯えた苦い経験から学んだ、ささやかな信念に過ぎないのだけれど。 (05/08/07 アップ時補記)]
by at923ky
| 2005-08-07 23:07
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