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ハルノートと太平洋戦争

[本稿は、季語随筆日記「無精庵徒然草「夜鷹蕎麦(2004.12.07)」からの抜粋です。]

 さて、ここで話がちょっと変わる。月曜日の営業もあと二時間あまりとなっていた火曜日の未明、四時過ぎ、お客さんを待ちながらラジオを聴いていたら(「ラジオ深夜便 〔こころの時代〕」)、「▼激動の昭和外交の証言者・加瀬 俊一(1)」ということで、筑波大学名誉教授である花井 等氏へのインタビュー番組となった。
 小生、ラジオでは講演やインタビューは聴かないことにしている。大概は、お客さんが来たりして、中途半端な話しか聴けないから、音楽とニュースが専らなのである。
 が、明日は、12月8日ということもあり、話題が興味深くもあったので、つい、やはり中途に終わったが、聴き入った。
 加瀬俊一氏とは、「すぐれた語学力でロンドン軍縮会議や国際連盟脱退などに随員として同行、20年のミズリー号上の降伏調印には外務省報道部長として参列。30年初代国連大使、33年駐ユーゴスラビア大使、35年外務省顧問となる。吉田、佐藤、中曽根の歴代首相の顧問もつとめる。」という方。
去る五月二十一日(今年の)に享年百一歳で逝去」された。
 アナウンサーのインタビューに答えていたのは、上記したように花井 等氏である。
 話題は、日米の開戦秘話だった。
 何故に日本は、あんな無謀な戦争に突き進んでしまったのか。避けることはできなかったのか。外交の裏舞台、あるいはまさに日米の外交の実務そのものに長く携わってこられた加瀬俊一の話やエピソードなどを花井氏が紹介されていた。



 話の焦点の一つは、アメリカ側が日本に突きつけた最後通牒とも呼ばれたりする、ハルノートだった。
 その内容は、主に「1、満州国を含む支那大陸、及び仏印から軍隊、警察の全面撤退。 2、大陸に於ける総ての権益の放棄。 3、三国同盟の廃棄。 」で、日本側としては到底、呑める筈もない要求内容だった。
【ハルノート】:ホワイト・モーゲンソー案
1941年11月18日ヘンリーモーゲンソー財務長官がルーズベルト大統領に提出したハリーホワイト試案

 このハルノート、最近の研究で、ソ連側のスパイが書き下ろしたものだと判明しているという。ハルノートの原案は、当初、2種類あったという。が、時のアメリカのルーズベルト大統領が選択したのは、日本に対しより苛酷な案だったのである。
 その案を書いたのは、ホワイト・モーゲンソーなのだが、彼については、最近の研究でいろいろ分かって来たというわけである
 ホワイト・モーゲンソーがソ連のスパイかどうかは別にして、日本が三国同盟を廃棄し、アメリカと戦端を開くのは、ソ連にとって都合が良かったし、アメリカにとっても、利害に叶ったということなのだろう。日本に日米開戦以外に選択肢がないところまで追い詰められていったのである。
 もっとも、ここに至るまでには、日露戦争での(思わぬ? 小村寿太郎の外交の賜物?)勝利という発端もあって、日清戦争にも勝利した日本の国民の慢心もあったのだろう。一部の軍国主義者だけが戦争への風潮を煽ったり、主導したわけではなかったのだが。
 さて、ハルノートという実質的な最後通牒を突きつけられ、アメリカとの戦争やむなしとなったのだが、問題は、次の真珠湾攻撃である。奇襲攻撃だったのかどうか。
 アメリカ側は今も(これからも)奇襲攻撃だったと主張している。9・11と同じだと言うわけである。
 日本側が開戦の火蓋を切って落とす際、宣戦布告を予めするか、それとも軍部の一部の思惑で奇襲するか、外交筋と軍部で(軍部内部でも対立があった。山本五十六海軍大将は、アメリカへの布告の確実な通知や時間を外交筋に念を押していたとか)厳しい対立があった。
 地下のケーブルでの電信が二つのルートを使って、確実に外交部を通じてアメリカ側に届けられるよう試みられたのだが、しかし、結果的には、アメリカ側に不備を突かれ、奇襲攻撃だと非難され、アメリカ側としては復讐だとばかりに、堂々と開戦を主張できるようになったわけだ。
 この辺りの経緯には、不明な点もあるような。
 そもそも、日本側の思惑も、軍部の動き、海軍などの動静も、暗号の解読でアメリカ側に情報が筒抜けになっており、パールハーバーにいるアメリカ軍はともかく、少なくともアメリカのルーズベルト大統領など首脳は、事前に<奇襲攻撃>があることを知っていたわけだ。
 9・11同時多発テロについても、アメリカ側の意図的なのか怠慢なのか分からないが、テロがあるという情報は入っていたとか。問題は、アメリカの現大統領ブッシュら首脳陣が事前に知っていたのかどうか。これは、時代が変わらないと真実は見えてこないのだろう。
 さて、実務面での不備や行き違いなどがあったが、太平洋戦争については、さらには満州事変に始まる十五年戦争については、大きくは、人種問題、民族の問題、資源獲得競争、日本の台頭(特に中国大陸での台頭)を許さないというアメリカやソ連の思惑、日本のロシアや中国に勝ってしまっての驕りや民族主義・軍国主義の過度の進行など、さまざまな要因が絡んでいる。
 思うに、12月8日の開戦記念日というなら、これはあくまで太平洋戦争に限ってのことであり、十五間戦争という括り方をするなら、開戦記念日は、「昭和6年(1931)9月18日、関東軍は、奉天北部の柳条湖において南満州鉄道の線路を自ら爆破し(爆破したふりをした、と言うほうがより正しい)、これを中国軍の仕業として攻撃を開始した。」9月18日ということになる。
 が、後者はほとんど話題にならない(最近は、前者も話題になる機会が減っているけれど)。

 先の戦争についての評価はさまざまにある。判断の付きかねる問題もあるし、情報が不充分な面もある。いずれにしても、十分なる反省と、さらには犠牲になった日本国内外の数千万の方々への追悼の念を折々に新たにしたほうがいいのだろう。
by at923ky | 2005-04-15 12:09 | コラムエッセイ


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